2014/06/07

ハビタランドスケープ 市民の川”落合川”

ハビタランドスケープ#025 市民の川
落合川・東京都東久留米市 

都内住宅地にありながら、豊富な湧水で清流を保っている落合川。
地元の様々な市民団体は、川をどのように守り、関わってきたのか。




■湧水に生かされた川
都市の建築や公園にデザイナーがいるように、普段、なにげなく見ている川にも設計者がいる。建築家のように派手にメディアを賑わすこともない彼らは、役所やコンサル会社で技術者として働く縁の下の力持ち的な存在だ。
知人の吉村伸一さんは河川設計者であり、横浜市役所に勤めているときに、和泉川という河川を設計した。コンクリートを使わず草地と一体化した岸辺は、子供が遊ぶ素敵な空間となった。吉村さんから東京にも市民運動が関わってつくられた素晴らしい川があると聞き、落合川を訪れることにした。
東久留米市は、東京都の北、埼玉県との県境にあり、小平市、西東京市に隣接し、池袋から西武池袋線で30分、三鷹からもバスで30分の距離にある。緑が多い郊外のベッドタウンとして、また手塚治虫が晩年を過ごした地として知られている。
5月の落合川には水草が気持ちよさそうになびいている。住宅地に面した遊歩道から、人の背丈ほどのコンクリートブロック擁壁が高水敷(河原)に垂れているのは、なんの変哲もない都市の川の景色であるが、堤防に囲まれた河川内の緑の豊かさが尋常でない。水面で髪の毛のように揺れているのはナガエミクリとミズニラ。どちらも準絶滅危惧種の貴重種だ。ヤナギやクワなどの樹木が水辺に定着して結構な大きさに育っている。樹木は水面にやさしい木陰をつくっていて、カモが休んでいる。
水はとても透き通っていて、小さな魚影がいくつも群れで横切る。アブラハヤという小魚、そして水が澄んだところにしか棲まない貴重種のホトケドジョウなどが、ここにはたくさん見られる。川幅にして5mも満たない、住宅地の中の小河川の中に多様な生き物が生息していた。

これほど生き物が豊かなのは、水質がよいからだ。この川の水質の良さは湧水量の多さから来ている。環境省による「平成の名水百選」に東京都で唯一選定されており、流域面積6.79㎢という小さな川ながら、上流の南沢地域では一日に約 1万トン、下流部の黒目川合流付近では一日に約5万トンの流量がある。
しばらく川沿いの道を行くと、河原が広がり、芝生はなだらかに水辺につながっている。あちこちで子供達が川の中に入って、生き物との出会いに心をときめかしている。川ガキたちの夢の世界の傍らでは、大人たちがワインを片手に寝転がり、あるいはヨガにふけり、思い思いの時を過ごしていた。
「いこいの水辺」と呼ばれるこの場所は、河川改修の際に、市民団体からの行政への働きかけによって空間のありようが決まった。改修後は、市民団体が土日の朝に河原の草刈りと掃除を行い続けていている。「落合川いこいの水辺市民ボランティア」の豊福正己さんは、仲間のご自宅が川のすぐ隣にあり、活動拠点になっているという。川を掃除をするのは、自分の庭の延長のような感覚なのだと教えてくれた。
落合川の水源のひとつである南沢緑地は、しっとりとした武蔵野の雑木林に包まれている。川に突き出した高台に南沢氷川神社が鎮座し、社寺林が水源の森として雑木林と繋がっている。林床にはイチリンソウの白い小さな花がちょうど咲いており、タケノコが自然界のモニュメントのように伸びていた。林の中をいくつかの細い流れが分岐しながら走り、行き着いた窪地で泉となっている。本当に綺麗な水だ…。水は、武蔵野台地の関東ローム層の下の武蔵野礫層という帯水層を通ってやってくる。ちょうど落合川流域の地下で武蔵野礫層が谷型となり、あたかも集水装置のような地形となっていることが、この湧水量の理由だという。ちなみに、武蔵野台地の標高55m前後には、南沢湧水群と同様、井の頭池、善福寺池、石神井池と都市河川の水源地が並ぶが、それらの池では水は枯れ、ポンプアップで人工的に汲み上げているのとは対照的だ。都内の住宅地の清流は枯れることのない湧水によって維持されている。


■ホトケドジョウ裁判
落合川では、清流に生きるホトケドジョウを原告とした裁判が東京都に対して行われたことがある。いったい何が起こったのか?東京都が洪水対策として計画を進める河川改修事業の一環として、2006年に地蔵橋付近で蛇行していた落合川の一部を埋め立て、河道を直線化するという工事が行われた。川とは、そもそも蛇行する性質を持ち、曲線の外側では深みである淵が、内側では浅い瀬ができる。蛇行部の淵では、水の侵食によって地盤が掘り下げられ、湧水がたくさん湧く場所となっていた。この湧水スポットはホトケドジョウが多数生息するハビタット(生息地)だった。
一方、治水上の観点からは、蛇行よりは、直線の川の方が下流まで迅速に水を流し、洪水のリスクを減らすことができる。また、屈曲部でどんどん土地が削られ、住宅地の古い擁壁が脆くなり、崩壊する可能性があることも課題だった。都は、これらに管理道路をつくるという理由を加え、100mほどの蛇行部の埋め立てを計画した。


続きはソトコト2014年7月号にて 
http://www.sotokoto.net/jp/latest/?ym=201407
写真:渋谷健太郎
テキスト:滝澤恭平

2014/05/25

ハビタランドスケープ 隅田川・東京都 

ハビタランドスケープ 隅田川・東京都  
”江戸のハビタット”

江戸時代から水辺の名所であった隅田川。
川沿いの社寺の史跡や地形から見えてきた、江戸の生態系保護思想。





川から上がった観音像
旧安田庭園の池で、亀がひょっこり水面に頭を出して、水中から上がってきた。両国にあるこの庭園の池は、汐入と呼ばれ、かつては隅田川の水を引き込み、潮位によって上下する水面によって、水中へ続く石段が隠れたり現れたりする様を楽しむことができた。現在では、隅田川との水路は閉ざされ、人工的に水位変動を生じさせている。しかし、亀はあたかも潮と共に隅田川から入り込んで、庭園に上陸したかのような錯覚を覚えた。


両国から乗った水上バスが鉄橋の下をくぐり抜けると、青空と両岸に満開の桜が広がった。思いのほか川をさかのぼるスピードが早く、町はどんどん視界の後ろに流れ、風が服をはためかせる。ブルーの駒形橋に続いて、真っ赤な吾妻橋を越えると、スカイツリーが目前で天を突いていた。船着場にゆっくり着岸した船から桟橋に降りると、そこは浅草だ。

4月初旬の浅草は、花見客と浅草寺への参拝客でごった返している。人力車に乗ったカップルがスカイツリーをバックに撮影するのが、当世風浮世絵アングルの新しい定番であるようだ。浅草寺の敷地の隣に浅草神社がある。この神社は大変珍しいことに、御祭神が漁師となっている。伝承によると、飛鳥時代に、漁師の浜成・竹成兄弟が隅田川に掛けた網を引いたところ、小さな人型の像がかかった。兄弟は、この地の知識人である土師真中知に相談すると、土師は「これは観世音菩薩である」と判じ、祀ったのが浅草寺の起源だ。兄弟と土師真中知の死後に、発見者である三者を神として祀り、浅草神社となった。


観音像が引き上げられたという場所が、川を少し南に歩いた駒形橋のたもとにある。駒形堂という名のお堂の横には「浅草観音戒殺碑」と刻まれた古い石碑が立っている。石碑には、観音さまが現れた場所だから、ここから上流の待乳山までの川筋十町で魚介の殺生を禁じる、ということが記されてある。江戸時代、元禄6年(1693)に浅草寺第四世宣存が建立したものだ。現在でいう禁漁区であり、生態系保護区といえるのだが、この設定には、当時の将軍・綱吉の「生類哀れみの令」との深い因縁がある。

1685年、将軍・綱吉が隅田川にお出ましになるというので、浅草寺の事務方トップが、万一野犬が将軍に噛み付いたら大変だと考え、浅草付近の野犬を捕らえて殺し、俵に入れて隅田川に沈めて処分してしまった。綱吉はこの事件に大いに驚き、とりあえず将軍の行列の前に犬猫が出てきても構わないというおふれを出した。それ以前から無類の犬好きであったこの将軍は、自分のせいで犬が殺されてしまったことに大変衝撃を受けた。以降、生物保護に関するお達しが出されるが、内容はどんどん過激化していく。1687年には、食料として生きた魚、小鳥、鶏、亀、貝を売買することを禁止、燕を殺した家臣を斬首。1693年には釣り船の禁止が出ている。綱吉の罪の意識が留めようもなく高まっていくようだ。浅草寺は綱吉のお達しに、率先して従うふりを見せる必要があったというわけだ。


綱吉死後、人間より生き物を優先するラディカルな法制度・生類憐れみの令はすぐに廃止されたが、浅草寺付近の禁漁区はそのまま維持されたようだ。それは、宝暦9年(1759年)の火災焼失後の駒形堂の再建の際に、浅草観音戒殺碑も再び立てられたという事実からも分かる。なぜ、綱吉死後も、浅草寺付近のこのゾーンに、禁漁区が続いたのだろうか?そんなことを考えながら、禁漁区の北の端である待乳山へ向かった。


続きはソトコト5月号にて
写真:渋谷健太郎


2014/03/25

水の都のソーシャルデザイン ハビタランドスケープ大阪

ハビタランドスケープ#021
大阪市・大阪府
水の都のソーシャルデザイン

「水都大阪」を掲げる大阪は、もともと中洲の島から生まれた水辺の都だった。
大阪ならではの町人感覚を活かした、水辺を「使い倒す」まちづくりの行方。




海民ノマドたちの市

 見た目も新鮮なカニやフグ、冬野菜が川沿いのテントの下に並ぶ。「買わんでええから、試食だけ食べてって」と若狭湾からアイゴを売りにきた漁師が声を上げる。車海老が焼かれ、牡蠣鍋がおいそうな湯気をあげている。「ざこばの朝市」というマルシェが開かれている。大阪・中之島西端の大阪市中央卸売市場に隣接する安治川・堤防沿いの遊歩道の上だ。通常はこのようなイベントは、河川用地である遊歩道では行うことはできない。大阪が官民挙げて推進する「水都大阪」プロジェクトによる規制緩和で2012年より隔月開催され、にぎわいをみせている。
 川にはサーフボードに立ったままオールで漕ぐスタイルのSUP(スタンドアップパドルサーフィン)に乗ったグループが手を振っている。誰でも手軽にできて水面からの眺望を体験できる軽快なスポーツだ。彼らはサッパーと呼ばれているのだが、今日はサッパーたちが中之島上流の「川の駅」八軒家浜からSUPにて川を下り「ざこばの朝市」に買い出しに行こうというイベントを行っている。
 中之島は大阪のビジネス街の中心地にあり、堂島川、土佐堀川というふたつの川に囲まれた中洲となっており、島には日本銀行大阪支店、大阪市役所、中央公会堂といったクラシックな建築と公園、対岸には中之島フェスティバルタワーなど再開発された高層ビルが立ち並ぶ。パリの中心であるセーヌ川のシテ島にも似た、モダン大阪の薫りがいまなお維持されているエリアだ。


 都心のセントラルエリアのビル群や阪神高速をバックに、川の中をゆく、SUPの一群たちはかなり目立つ。ジョギングするランナーや道行くひとびとが集まってきて、写真を撮ったりしている。イベント主催者の日本シティサップ協会の奥村崇さんは「必ず手を振り返すようにしていますよ」と笑う。もともと大自然の中をゆくアウトドア派だった奥村さんは、いまは都心を漕ぐ方が楽しいという。川から大阪の都市を眺めているといろいろなことが見えてくる、そう話してくれた。
 「ざこば」とは雑喉場と書く。「喉(こう)」は、古くから魚を数える単位で、種々雑多な魚介類が集まる市場という意味である。雑喉場の魚市は、江戸時代に大いに賑わい、西日本および淡路、和泉、紀伊、伊勢、志摩など近郊の魚荷を独占的に引き受けた。雑喉場の他にも、江戸期の中之島には堂島米市場、天満青物市場と、「天下の台所」を支えた大市場が開かれた。その背景には、大阪は、前方には瀬戸内海、背後には京都への淀川という水上交通が便利な立地特性に加え、西廻り航路、江戸への航路の発展によって全国の流通の要となったことがある。近代以前、大動脈とは船運であり、水への接続が都市には必須であった。




 もともと大阪は、縄文海進期には、現在の河内、生駒の麓あたりまで広がる大きな湾であり、淀川が長い時間をかけて土砂を堆積させてできた土地だ。古大阪湾に南から突き出した上町台地の端には砂嘴が伸び、その一部に難波津の港が築かれた。淀川は、河口部に八十島と呼ばれる大小様々な砂州を出現させた。河口には渡来系の海民が住み着き、彼らは小舟を使い移動して漁をしたり、芸能を見せたり、時には色を売ったりもした。農耕民族でないノマドな海民たちは、やがて天皇や貴族に海産物を届ける「供御人」と呼ばれる役目を負うようになっていった。鮑や海塩など海産物は贄(にえ)として神や天皇に捧げられる神聖な儀式であり、供御人は非常に重要なポジションであった。その献上物の残りを砂州で売りさばいたのが、市のはじまりと考えられている。

 中世には、市の関係者は「座」という同業者組合を組むようになった。「座」は神社の祭礼組織の枠組みで、出身や身分、職業を問わず、年齢だけで上下関係を決めるという秘密結社のような仕組みだ。のちに、堂島米市場は世界初の先物取引を生み出したが、そのベースとなっているのは、信用できる相手やったら現金はいらん、という信用取引だ。ここでいう、信用とは、血縁・地縁のコミュニティでなく、利益・関心のコミュニティの一員としての自覚と責任を持っているという枠組みで機能していく。船場商人に代表される、大阪人の合理性、開放性の一端は、砂州からはじまった市の発展と共に磨かれてきた、と想像するのも興味深い。






写真:渋谷健一郎
続きはソトコト5月号で
http://www.sotokoto.net/jp/