2011/11/08

『富の未来図』 これからの知識社会に要求されるスキルとは?

















『富の未来』と言えば、アルビントフラーの大著だが、今回は『富の未来図』 べ・ドンチョル、チェ・ユンジクという本を読んだ。
日本ではあまりさかんでないが未来学というジャンルがあって欧米のエネルギー系企業などは数十年スパンでの未来予測をきっちりやって事業計画を設計していることなどがあり、それなりに需要がある。ロイヤルダッチシェルが出している未来予測レポートの”Shell Global Scenarios to 2025: The Future Business Environmenttrends, Trade-offs And Choices”などは出来がいいと言われている。
日本ではシナリオプランニングの手法が少し定着してきたといったところだろうか。

『富の未来図』は韓国の経営コンサルタントが執筆している。韓国は国内市場が限られていて、優良企業はグローバルな動きの中で自らのポジショニングを設定していなかければならないのと、パワーポリテックス的に北朝鮮、中国、ロシア、アメリカ、日本などの接点空間に領土があり、このあたりの未来学が結構さかん。議論好きで「理」を重んじる知識人階層がいるというのもその要因のひとつだろう。

この本は2030年までの様々な未来予想が書かれていてそれなりに面白いのだが、興味深かったのはこれからの労働価値、人材がどうなっていくかという話。

アバターでバーチャルオフィスでいつでもどこでもリアルオフィス持つ事なく仕事できる、みたいな煽り文句もあるのだが、それはクリシェで、良かったのは「仮想ビジネス生態系」という方向性だ。

あるビジネスを立ち上げようとした時、自分一人だけでやれる能力には限界があるので、周囲のネットワークをオーガナイズして、その事業が展開できる体制を整えておけばいいという考え方。

シリコンバーの競争力は社会的ネットワークから来たと言われているが、お互いに何か考えているかわかっている中で新しいビジネスを立ち上げていくという集合的な思考だ。

一社だけで、そのサービスを成し遂げようとせずに、ネットワーク全体でサービスが提供できる環境にもっていければそれで十分でないか、むしろ、スピードをもって展開するにはそれが効率的という発想。

これには「弱いネットワークの法則」というのがあって、ネットワークは結束力があまり強くなくても十分な有益性を持つという洞察。マーク・クレノベートの研究によれば55.6%の人々が私的なネットワークを通して仕事を得たが、その関係生は時々会うだけの仲だと言う。

今後、サービスの競争優位性は企業ではなく個人のネットワーク性に蓄積されるかもしれない。

その背景として、『富の未来図』では、未来で必要とされる人材の能力として次の二つを挙げている。
ひとつは知識の生産能力、もう一つはネットワークの生産能力だ。

このポイントは知識とネットワークそのものが重要なのではなく、その生産能力が価値を生むということだ。
即ち、常に持続的に画期的なアイデアや、新しいサービスに対応できるネットワークを産み続ける事ができる能力自体が富を産むということなのである。

Webサービスが代表的だが、昨今はあらゆるブーム、サービスがすぐに沈静化し、移り変わる、この本が述べる「ワールドスベズム」・世界的痙攣現象を繰り返している。
そんな中ではすべての知識はすぐにコモディティ化し、価格競争あるいはロボットによる代替に取って替わられる。
この状況の中で、重要なスキルとは専門的な知識ではなく、知識とネットワークを臨機応変に生産できるメタ知識ではないだろうか。
そのような知識社会についての洞察を得ることができた一冊であった。

2011/04/11

高円寺反原発デモの報道と反応に思う

 4/10日曜日の東京、高円寺で反原発のデモがあった。
twitter等での呼びかけで拡散し、規模は拡大、15000人以上の人が集まった。
構成員としては左翼団体や労組でなく、一般の若者が多く、雰囲気はカジュアル&ファッショナブルでちょっとしたレイブパーティーのような趣。年代は若者が中心だが、老若男女様々な層が集まっていたようだ。


 上のムービーをみれば分るが、サウンドシステムとDJを乗せた車がゆっくりと公道を練り歩き、それに連なるデモ参加者は各自用意した色とりどりのアンチ原子力プラカード、レゲエフラッグなどを振りかざし、テクノビートに揺られながら「原発いらない」とコールしている。警官が必死に制止をしている。見慣れない風景だ。



 不思議なことに警官隊とデモ隊との衝突といったことは起こらず、大量に動員された警察官たちは機敏にデモ隊の流れをさばき、信号システムや交通にそれほど過大な影響は及ぼさなかった模様。
あたかもコンサート会場の警備員のように興奮する客の動きを冷静に制御することに徹しているような印象だ。

 ソーシャルメディアでの反応はおおむね二つに分かれていて、我々のエネルギーとして意思表示できたのはいいことだというポジティブな論調と、若者の遊びであって、こんなから騒ぎが何の意味があるのかというネガティブな意見だ。
そして、ポジティブ派は「マスコミはこのデモを報道しない。各地に飛び火するのを恐れているのだ」といったシニカルな意見も多いようだ。

 このデモの報道具合を見ていると確かに主要なマスメディアには、ほとんど取り挙げられていない。
NHKでは「各地で原発反対デモがあり、都心でも銀座でデモがあり、2000人が参加した模様」と、圧倒的に規模の大きい高円寺デモを故意に報道していない。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110410/k10015213681000.html

東日本大震災で深刻な事態に陥っている福島第一原子力発電所の事故を受けて、エネルギー政策を転換し、すべての原発の運転をやめるよう訴えるデモ行進が東京の都心で行われました。
デモ行進は、全国各地で原発に反対する活動などをしている8つの市民団体の呼びかけで行われ、主催者によりますと、およそ2000人が参加しました。はじめに港区の公園で集会が開かれ、代表者が「福島原発の事故を契機としてエネルギー政策を転換し、すべての原発を廃止するよう求めていきましょう」と呼びかけました。そのあと、参加者たちは「原発はいらない」という横断幕を掲げながら、東京の都心を4キロ余りにわたって行進しました。

 一方、日本のマスコミでは唯一、日テレ系列で以下のように高円寺デモを取り上げた。
http://www.ytv.co.jp/press/mainnews/180563.html
福島第一原発事故を受け、各地で10日、反対デモが行われた。
東京・杉並区では10日午後、リサイクルショップの店主らの呼びかけで、「高円寺・原発やめろデモ」と題して行われた。簡易投稿サイト「ツイッター」などで参加が広がり、若者を中心に多くの人が集まった。
デモを主催したリサイクルショップ「素人の乱」の店長・松本哉さんは、「こっちもびっくり。こんなに人が集まって…。原発が危ないとわかったので、一刻も(早く)全部止めていただきたい」と話した。

 海外メディアではBBC、アルジャジーラ、CBC(カナダ国営放送)など様々なメディアが取材。
CBCのニュースはこちらで、高円寺の写真も多数アップされている。
3/27の銀座のデモの様子はBBCのニュースで報じられているが、高円寺のものはまだ確認できていない。
Anti-nuclear protests in Japan
共同ニュースも海外向けの記事をアップしている。
17,500 gather for Tokyo rallies against nuclear plants



 私のタイムラインに流れてきたツイートではっとする意見があった。
@87a_wtnbさんのツイートだ。


”デモを日本の報道が扱わない事は今に始まったことじゃない。逆にデモは日本人が思っている以上に欧米に強く語りかける力を持つと思う。元々外来の手法なのだ。そして今日本には欧米メディアの守護が必要だ。この状態を続け、日本らしいデモの形を見つけ次第に日本人にも理解してもらうのがいいと思う。”


 確かに、そうなのだ。こんなに多くの人、若者、子供を抱えたお母さん、おじいさん、職業も年齢もばらばらな普通の人が自分の意思で集まったのだ。
今までの平和団体系のデモや、労組系のデモと違って組織化されることなく、自発的な意思で。
ここには、明らかに、これまでの日本のデモと違った何かがある。各自のスタイルは様々だ。だけども行き場のない「想い」を15000人が集合的に表現したのだ。
ひょとしたら画期的なことなのではないか。
海外のメディアがこれを取り上げるのは、見えにくい日本人の民意を取り上げようとしたからだと思う。
日本の首脳層の硬直、無能ぶりが海外に報道されることが多い中、一般の日本人の民意を伝えるニュースは海外のメディア環境の中でもいつものフレームとは違う、原発に対する日本人の民意の一側面を伝えるという点で意味があったと思う。

 レイブ的なスタイルをとっているが、このエネルギーは何かに似ているものがある。
それは幕末の「ええじゃないか」ムーブメントだ。
日本人が意思を表現するとしたらそれは「祭り」という形なのだ。
しかし、現代において明らかに違うものもある。このページでデモの告知をしているのだが、
まず、「超巨大反原発ロックフェスデモ in 高円寺」というコンセプトで訴求されている。
また、デモのやり方ってどうやるの?ってことに対して、隊列の組み方、過去の海外事例ムービーなどを解説している。
つまり、デモというのは市民コミュニケーションのひとつの形であり、それを楽しみながら学んでいこうという姿勢だ。
恐らく、高円寺デモで初めてデモに参加したという人も多かったのではないか。しかし、レイブ的な祭りノリがありつつも、それが完全なカオスに陥らず、警官隊、一般市民との棲み分けが一応実現していたというのはなんらかの「デモの作法」が共有されていたからだろう。

 もちろんデモだけが、民意を表現する手段だとは思わない。広告コミュニケーションでいえば、それは「認知」の段階であり、これから、「比較、理解、行動、共有」を各自のプロセスの中でやっていけばいいと思う。
ある人はNPOを立ち上げるということになるかもしれないし、ある人はNPOに募金をするという行動になるかもしれない。
江戸時代の「ええじゃないか」と違うのは、ソーシャルな市民コミュニケーションの一つのプロセスとして、デモが割と冷静に各自に認識されていることであり、また、それぞれの現場でそのエネルギーを形にしていくアクションプランにも結び付いていくベクトルがあるということだ。
日本における市民運動とは「祭り」の形を取りながら、「冷静と情熱のあいだ」をすり抜けていくようなバランスにあるのではないかと思った。
欧米のパブリックとはまたちがった、パブリック。日本人の身体性に合うパブリックを作り上げていくタイムラインがスタートしていると、「原発いらない」のビートを聴きながら思う。

2011/03/24

「エコな人たち」が東京を脱出

  「エコな人たち」が東京から逃げ出したということを、
ある環境団体のトップの人から聞いた。
特に今回の水道水放射能検知の状況では、まあそういう動きが早まるだろう。
「エコな人たち」とひとくくりにすることはできないが、そう括られてしまうことの特性として
自分だけは安全な食料、水、環境が確保できる場所にいたいというようなニュアンスを感じる。

  もともとエコロジーとは生物群集と生息環境の関係、個と全体の関係を問う学問であったはずだ。
自分たちだけが生き残れる環境を志向するとそれはコミューン志向になる。
その閉じた系自体も全体の中で生かされている一つの系にしか過ぎない。
いま起こっている事態は、これまで何の疑いもなく信じていた全体を担うシステムが機能不全を起こしており、全体をサポートするようなシステムではなかったということだ。
首都圏の人たちのエネルギーを確保するために地方が犠牲にならざる得なかったこと、
分散型エネルギーを導入することを否定してきた電力会社の論理が「安定供給に破たんを起こす」ということだったが、その大型一極集中のシステムがもろく崩れ去ったということだ。
それが日々のドラマティックな展開の中で誰の目にも明らかになっている。

  今回の事態で、いろいろな物事のありのままの姿が分りやすく明らかになったが、
「エコな人たち」も今までのスタイルでは多分、限界が見えている。
首都圏の人口が地方に分散していくということ自体は必要なことでもあるのだが、避難した地方の中で自分の存在をどう組み込んでいくか、その地方自体も日本全体の中で、世界全体の中で、どう機能させていくかということの着地点を見出していかないと結局は立ち往生することになる。

  そう、この世界はもう多分どこにいっても避難先はない。ただ、一時的に問題が先送りされるが、それは一時で終わり、すぐに解決しなくてはいけない問題が山積みになっていることに気づかされるだろう。
個の問題解決がどう全体の問題解決に繋がっていくかということを常に考えていかないとならない。
遠回りのように見えるが、それが最も早道でもあるのだと思う。
きれいごとではなく、ぎりぎりのところでそう選択せざる得ないような時代に、311以降唐突にシフトしてしまった。
それは大変な混乱を伴うだろうが、本来の道に進まざる得ないようなお題を然るべきタイミングで与えられたのだと、何かすがすがしさも感じる。

  とはいえ、自分も歯が抜けてしまう夢を昨日見て、相当不安というか動揺を感じているのも確か。
みんなの集合無意識も急激に変化しているだろうから、みんなが今どんな夢を見ているのか、それも知りたいところである。




 
 

2011/03/22

SNSアカウントと柳田國男

 先週は長い一週間だった。

 震災初期にはツイッターが情報共有ツールとして有効的に機能しているように見えた。
震災地や原発の情報などが堰を切るように流れてきて、確認し、有益な情報と思ったものはリツイートした。
しかし、編集リツイートでは情報源が分らないので公式リツイートを使用しようという動きになった。
デマ情報も流れ、自分も安易にリツイートしてしまったものもある。
次に起こったのは自粛モード。震災の気分を害するものは排除され攻撃された。
関西のフォローで彼らの日常を流してるアカウントは正直異物感があって、フォローを外すということを自分もやった。
そしてその反動でエッチネタやちょっとしたジョークが流れ始めみんなの心を和ませた。
その中で最大のヒットはやはり#edano_neroだろう。
これは海外のマスメディアにも取り上げられる結果となった。
3日ほど経つと、非被災地の僕らでもできることをやろうという動きが始まった。
様々な震災情報サービスが立ち上がり、募金活動も活発化していった。
facebookページでの情報集約サイトを立ち上げる方もおられ、それぞれのメディアリテラシとメディア環境でいろいろな試みが同時進行的になされていった。

 有名、無名問わずいろいろなアカウントがその時の空気に流された意見を流布したり、
間違った情報を流したり、喧嘩が起ったり、新しいサービスを立ち上げたり、
twitterも喧騒の日々だった。しかしみんな急速にtwitterをはじめとしたメディアリテラシーを学習した時間だったように思う。

 そんな中で大塚英志さんとたまたま井の頭公園のスタバで再会した。
彼は作家、マンガ原作者、編集者、批評家、大学教授といろいろな顔を持つ。
編集者時代に僕は担当で、様々な仕事をさせてもらった方だ。
SNSと連動した電子出版サービスをやりたいとおっしゃった。
僕の知る限り大塚さんはSNSはおろか、キーボードすら自分で打たずに手書きの原稿を書いて、弟子にテキストを打たせている御方である。
そんな大塚さんがこのタイミングでなぜそのようなことを言い始めたのか関心があった。
映画「ソーシャルネットワーク」を見て気がついたのだという。ソーシャルユーザーのアカウントは作家の「主体」に近い存在なんだと。
だがそれは、アカウントがイコールそのまま作家性を持つことではない。
「繋がる」という環境を提示していれば良かった時代はもう終わったと、これからはどう表現と主体性を高めていくかというタイミングなんだと。

 電子書籍というフォーマットであっても書籍という形式を持つ限りにおいて、ある作家性を書き手に求める。
それは、SNSユーザーを次の段階に進めるきっかけになるのでないかと。
そんな中で柳田國男の話が出てきた。柳田は「よき選挙民を育てるためには国語の教育が最も重要だ」と言い、言語的な主体を確立させることに力を注いだ官僚でもあった。それが彼の言う「常民」の概念だ。
なるほど、と思うところがあった。

 SNSアカウントユーザーの作家性の洗練を通した主体性の確立へ。
なかなかプログレマテッィクなテーマだと思ったので、その企画を共に手伝うことに決めた。
大塚さんは日本のCGMの源流と言えるコミケ、二次創作に深くか関わってきた編集者なので、彼がこのタイミングにそういうことを言い始めたのもやはり、何かの潮時なのかもしれない。

 そして、自分を振り返ってみると情報をキュレーションしているように見えて、
結局他人のツイートに反射的に反応している単なるいちSNSアカウントユーザーに過ぎないことも分った。
そういえばブログなんかもちゃんと続けたことがない。
とりあえず、自分のスタートできる中で、書くということをやってみようと思ったので、ブログを始めることにした。
まあ、あんまり更新はしないかもしれないけど、定期的に日常の情報フローの中から浮かびあがってこのようなアブストラクション行為を行う予定。

 今日は春分の日。一年のサイクルのスタートで、何かを始めるには最適な日だ。