2013/12/31

ハビタランドスケープ#018 東京湾・東京

「ソトコト」連載:ハビタランドスケープ #018
 東京湾・東京
埋め立ての履歴。

遠浅の干潟が広がっていた東京湾は、どのように埋め立てられてきたか?
葛西臨海公園、ゴミ処分場、羽田空港を歩く。




街になった干潟

 うっすらと漂っていた朝靄が晴れ、東京湾に朝日が照り始めた。レインボーブリッジを渡った後、有明、東雲、辰巳と首都高湾岸線を快適に車は走り抜ける。丸の内のオフィスビル群を遠景に、タワーマンションがにょきにょきと林立する風景。それは、多摩ニュータウンなど内陸に開発が進んだ郊外に対して、海側の「第三の郊外」とも呼べるかもしれない。荒川を越え、葛西で高速を降りると、環七の終着点に行き着く。15メートルを超えるワシントンヤシの街路樹が整然と並ぶ街区、そびえ立つ大観覧車。この土地では何もかもが巨大なスケールで迫ってくる。人工的な都市計画が行き渡った埋め立て地の先っぽの公園、葛西臨海公園へとわれわれは向かった。
 葛西はもともと遠浅の海岸がつづく小さな漁村で、沿岸の海藻、貝類が豊かに採れた。とりわけ海苔の栽培が盛んに行われており、「葛西海苔」としてブランドが知られていた。戦後、地下水汲み上げによる地盤沈下があたり一帯で進み、西葛西2丁目では、1968年には1年間に2389センチの沈下、中葛西3丁目では1970年までの80年間で、2メートル以上の沈下が記録されている。この結果、広範囲で私有地が海面下に水没してしまう「水没民有地」が出現した。葛西の埋め立て計画は、この事態を解決することと、新たな都市開発を抱き合わせにして事業化されることとなる。1972年、東京都建設局により「葛西沖開発事業」が開始され、土地区画整理、埋め立て事業、道路事業、公園・緑地計画が行われた。総事業費は927億2600万円(民間建設費も合わせると総投資額5940億円)、土地区画整理地379・87ヘクタールのうち、約半分は水没民有地であった。出現した新しい街、それは海の上のニュータウンと呼ばれるにふさわしい。スーパーブロックと呼ばれる大きな街区で区切られ、大規模な高層集合住宅のほか、葛西流通センター、東京都中央卸売市場葛西市場、葛西下水処理場などのインフラ施設が並ぶ。沖合の港湾施設(コンテナ積み下ろしなど)に届いた物資の流通拠点として、この地はベストポジションにあった。その一方で失われたのは遠浅の干潟の環境だった。すでに荒川、江戸川からの汚濁水流入にともなう水質悪化により、1962年には漁業は幕を閉じていたが、江戸川河口には、大三角などと呼ばれていた広大な干潟があった。江戸時代以前には、現在の中川に利根川と荒川が流れ込み、さらに渡良瀬川が太日川(江戸川の旧名)として東京湾へ注いでいた。そのため河口域には大量の土砂が堆積する干潟環境となり、様々な生き物が生息していた。これらの干潟は沖合の三枚洲を除いて埋め立てられたが、その代償地として建設されたのが、葛西臨海公園だった。
 葛西臨海公園駅からまっすぐに延びるプロムナードを歩くと、突き当たりの丘の上にガラスのキューブ建築がある。東京国立博物館法隆寺宝物館などの作品で有名なモダニスト建築家・谷口吉生の設計によるもので、スクエアの大きな開口部から海が切り取られ、ガラスの中を行き交う人びとが浮遊感を演出している。建築が立地する丘は、もちろん人工のマウントで、後背地の江戸川区のゼロメートル地帯を高潮、津波から守る巨大な防潮堤としても機能している。なだらかな丘を降りて松林を越え、吊り橋を渡ると浜だ。渚が波をトレースして曲線を描き、コメツキガニがささっと隠れる。ハマグリであろうか、砂地の穴からは気泡が噴き出ている。女性の写真家が一人、静かにそんな情景を撮影している。ここは、砂を他所から持ってきて完全に人工的につくられた浜だ。東側にもうひとつ同じサイズの人工浜があり、そちらは完全に人の立ち入りが禁止され、生き物のサンクチュアリとなっている。白いダイサギが1羽やってきて、ハゼなどの小魚を狙って、ホバリングしてくちばしを水面に叩きつける。高層ビル群を舞台幕とした軽やかなダンスは、見飽きることがなかった。




海とゴミ


 東京ゲートブリッジの巨大なボックス状の橋梁を車は駆け抜けていく。到着したのは「中央防波堤外側埋立処分場」と呼ばれる東京湾埋め立ての最前線の地だ。ここでは東京23区内の家庭ゴミなどの一般廃棄物、上下水道施設から出される都市施設廃棄物など年間60万トン(2011年度)を受け入れている。もともと東京湾の埋め立ては江戸時代から都市から出されるゴミの受け入れ先として始まった歴史がある。築地、八丁堀、越中島、深川などは江戸期300年間に埋め立てられた。その後、明治期に入り、東京湾航路掘削のための浚渫による土砂処分として芝浦、東雲などが埋め立てられ、さらに1923年の関東大震災のガレキ処分地として晴海、豊洲の埋め立てが始まった。ゴミの埋め立て地として思い出すのは「夢の島」だが、こちらは1957年から東京都の処分場として埋め立てが始まり、1967年には役目を終えている。夢の島の一角には、1954年のビキニ環礁での水爆実験により被災したマグロ漁船「第五福竜丸」が保存されている。夢の島と隣接した15号処分場に廃棄されようとしていたのを、市民の声により核の「遺構」としてゴミの中から取り出され、展示されているのであった。築地にあったはずの、被曝したマグロを処分したモニュメント「原爆マグロ塚」も展示館の横に移設させられているのは、いかなる理由であろうか。




photo:渋谷健一郎

続きはソトコト1月号にて
http://www.sotokoto.net/jp/latest/?ym=201401

ハビタ・ランドスケープ#017 多摩川・東京/神奈川 

「ソトコト」連載ハビタランドスケープ#017
左岸と右岸の流域史
多摩川・東京/神奈川

多摩川を挟む東京側の左岸と神奈川側の右岸は、近いようで全く異なる
歴史と文化を持つ。その意外な共通点を二子玉川を起点に探る。




王たちの丘
 二子玉川の駅はふわっと川の上に浮いている。東京都でもないし、神奈川県でもない、中間地帯のホームから、広い多摩川の河原を見下ろすのは、都市の中にあってとてもファンタスティックな時間だ。田園都市線の地下路線から、一転、光と風の世界に送り込まれることで、より劇的にその効果が高まっている。ここに橋が掛かったのは、そう遠い昔のことではない、昭和2年(1927)のことだ。それまでは「二子の渡し」と呼ばれる渡し船が両岸をつないでいた。遡って江戸時代、幕府は多摩川を江戸防衛のフロント・ラインと位置づけていた。そのため、架橋に制限があった。また、六郷付近に慶長5年(1600)に橋を架けたことがあったが、たびたびの氾濫で橋は流され、普請コストに見合わず橋を諦めた。以来、数百年のあいだ、多摩川に橋は架けられることはなく、渡しで行き来することとなった。ここに橋が架けられたのは、1923年の関東大震災後の復興支援と、在京陸軍の相模原への演習時の移動が理由となった。東京側は橋を多摩橋、神奈川側は二子橋と、それぞれのサイドの地名を主張しあい、結局二子橋という名称に落ち着いたが、二子玉川という地名も、このボーダーライン上の性格に由来する。二子玉川という名前にも込められている、多摩川を挟む右岸と左岸。川を挟んだ空間に、どのような歴史と世界が広がっているのか、探索に出かけることにしよう。
 二子玉川ライズのガラスのアナトリウムを通じて空が見える。二子玉川駅東口に2011年にオープンしたこの施設は11.2haの都市最大の再開発だ。隣接部分には大きな都市公園も計画され、多摩川へとゆるやかにつながるアーバンデザインが2015年に完成する。ライズを抜けて、住宅地を少し歩くと、樹林に覆われた斜面が見えてくる。松などの木立の中に、趣のある低層マンションが点在している。この崖は、国分寺崖線。本連載でもたびたび登場した、国分寺から世田谷まで続く、旧多摩川が武蔵野台地を削りとった崖線だ。崖線の下には小川の丸子川が流れており、湧水が所々染み出しているので水はかなり綺麗に見える。道路橋の他に、いくつかの小橋が架かっているのだが、それは一軒の邸宅専用の橋であったりして、穏やかでゆとりがある空間だ。フランク・ロイド・ライトの建築のようなクラシックな建物が、小川の奥に佇んでいて、表札には「整体協會」と刻まれていた。ここは明治44年生まれの整体家・野口晴哉が開いた野口整体の本部であった。樹林の丘を背負い、目前で清流を結界とする。さすがに気がいいポイントを選んでいるなと感心する。





 しばらく歩くと鬱蒼と茂る樹林があり、公園となっていて、ムクノキ、モミジなどが覆う斜面を上へ抜けることができる。台地の上は「上野毛」という地名で、東急グループの創立者、五島慶太の美術コレクションを収めた「五島美術館」がある。崖線の広大な樹林を庭園としており、眼下には東急大井町線、さらには二子玉川ライズのタワーマンション、そして多摩川を見下ろすことができる。まさに東急王国一世紀の発展を眺める玉座のような場所だ。このあたり野毛は武蔵野台地の南のエッジなのだが、鉄道の王のみならず、かつて5〜7世紀の王たちもたくさんの古墳を築いた。これらの古墳は「野毛古墳群」と呼ばれている。環八通りを自由が丘方向へ数十分歩くと、等々力渓谷の手前に「野毛大塚古墳」がある。全長86mの帆立貝の形をしたこの古墳はかなり大きい。高さ11mの円墳の前に、小さな四角い前方部がついており、きっちりと南西の方向に振られている。地図上では、この方角の延長線上に富士山がある。円墳に登ると、いまは建物があり富士山は見えないが、とてもよい眺望だ。富士山は「不死山」であったという伝承がある。巨大な古墳は、多摩川のはるか向こうにそびえる富士山への軸線を意識したランドスケープデザインであったかと思う。

photo:渋谷健一郎

続きはソトコト12月号にて
http://www.sotokoto.net/jp/latest/?ym=201312


2013/10/02

ハビタ・ランドスケープ015 秩父・埼玉県

ハビタ・ランドスケープ015
秩父・埼玉県     地球の足跡を巡礼する地。

2億年以上前からの地質が刻まれた盆地である秩父は、
江戸の霊場でもあった。時空を超える旅が始まる。


ちちのき生い茂る秩父へ 
 鉄道がなければ来れない深い山の中、単線のローカル線は渓谷を行く。山腹の民家は家も畑もすっぽり緑の中に包まれている。長い長いトンネルを越えると、夏の雲が山脈の上に広がった。青い山脈に囲まれた秩父盆地に西武秩父線はゆるゆると入っていく。
 秩父と書いてちちぶ、と呼ぶ。不思議な音感だ。まるやかでありながら無骨、古代の野性味すらうっすら感じる。地名の由来には様々な説がある。アイヌ語でチチャプ(河流)とするもの、山の背をチップと呼んだというもの、当地に多い鍾乳洞で鍾乳石が滴る様子を乳(チチ)と言ったもの。興味深い説としてチチの木、すなわちイチョウが生い茂っていたから乳生(チチブ)と称するというものがある。なぜイチョウのことをチチの木と言うかというと、イチョウの木に乳房のような気根ができるからだ。江戸の国学者・賀茂真淵は、「ちちのき」はイチョウの古語と言う。イチョウはとても古い植物で、初めて地上に現れたのは古生代末期の2億5千年前で、中生代ジュラ紀の1億5千年前に最盛期を迎え「生きる化石」と呼ばれている。ちょうどこの年代の地層は、西南日本では帯状に分布しており、最初に発見された秩父の名前を取って「秩父帯」と言う。秩父はナウマン象で有名なナウマン博士が明治11年に訪れた、日本の地質学発祥の地でもある。市街には、イチョウ並木を始め、巨大なイチョウを至る所に見ることができる。「ちちのき」が生い茂る、太古の記憶がアーカイブされた秩父に時空を超えてトリップしてみよう。


 いま、長瀞(ながとろ)という渓流の岸壁に立っている。巨大な白い岩盤を水流がくり抜いた深みに、ターコイスブルーの水が真夏の太陽を反射している。女の子たちを乗せたゴムボートが上流から流れてきて、歓声を上げた。目があい、思わず手を振ると、にっこり手を振り返してくれる。川の背後には「岩畳」と呼ばれる白いテラス状の岩盤が広がり、松の樹皮を昆虫の視点で見たような、でこぼこの立体的な地形になっている。「結晶片岩」というこの岩石はもともとは1億年ほど前に太平洋海底に堆積された地層だが、どのような旅を経て目の前に現れているのだろうか? 想像してみよう。まな板の端になすを強く擦り付けると、皮だけが剥けてしわしわになって残る。まな板が大陸プレート、なすが太平洋プレートだ。シワは太平洋の地殻の残滓で、「付加体」と呼ぶ。太平洋プレートは、さらに大陸の下への沈み込む。シワの一部も地下深くに引きずり込まれ、高圧な環境で、ばらばらな鉱物たちが均一方向に再結晶化したものが結晶片岩だ。この岩石が造山運動で盛り上がり、地上に現れたのが、長瀞のランドスケープだ。結晶片岩は一定方向に割れやすいので、長瀞では荒川が南北方向に岩盤を割って流れ、草木たちも岩を縦に切って萌え出ている。大陸と太平洋が細長く向き合う日本列島には、帯状に同じ性質の結晶片岩が分布し、房総半島から関東山地、紀伊山地、四国山地、九州山地まで長さ1,000kmにわたる結晶片岩のラインが弧となっている。このラインを「三波川帯」と呼び、南を秩父帯と接し、北で列島の大断層である「中央構造線」と接している。南西日本列島は、太平洋から次々とやってきたプレートの残滓がスライス状に積み重なって産まれたのである。

江戸のジオロジー・秩父礼場巡り
 眩い太陽を避けて、荒川から山側に入り涼を求める。しばらく車を飛ばし水潜寺に着く。秩父盆地には「秩父札所」という霊場がある。34ヶ所の観音院が一巡100kmほどの範囲の中にあり、徒歩で5日から7日ほどで巡拝することができる。もともとは修験道の岩窟やささやかな庵の観世音が、僧や土地の人びとの力でまとめられたものである。江戸時代に入り、江戸の武家や町人、とくに社会的制約の多かった女性に流行が起こり、寛永71750)年には一年に7万人の人びとが訪れたという。水潜寺もそのひとつの34番礼所だ。
 沢を横目に、苔むした石垣が続く坂を上がる。ひんやりと涼風が火照った肌を撫でていく。その風はどうやらお堂の裏の岩壁からやってくるようだ。石仏が点在する岩場にはぽっかり穴が空いていた。冷風はその穴から吹いてくる。冷たい。天然のクーラーだ。石灰岩の穴の中には水がちょろちょろと流れ、からだひとつ分だけ身を置くことができる。「水潜りの岩屋」と呼ばれ、巡礼者たちは最後に訪れ、ここをくぐって再生の胎内帰りをし、長命の水をいただき、俗世に戻っていく場所であったという。穴の周りには雪国の高山植物であるイワカガミがピンクの花を咲かせていた。
 秩父盆地の中央を流れる荒川は、陸地を削り取り、幾つかのひな壇状の地形である段丘を残している。市街地北部の段丘面の上に19番札所の龍石寺がある。境内には三途の川で死者の脱衣を剥ぎ取る脱衣婆(ルビ:だついばあ)を祀るお堂もあって、少しおどろおどろしい雰囲気だ。高台になっている敷地は、黒い大きな砂岩がもっこりと露出し、観音堂はその上に建っている。伝承では、この地でかつて大干ばつがあった時、弘法大師が祈祷したところ、盤石が二つに割れて、龍が昇天し、雲を呼び雨を降らせ人畜草木みなよみがえったという。傍らの岩には「ポットホール」という、川底のくぼみに石が入り込み、渦巻き流のため石が回転してできたなべ状の穴がある。激流の地形の記憶が、人びとの関心・懸念にまつわる物語に昇華され、まことに興味深い。



 龍石寺から、荒川を秩父橋で対岸に渡った場所に、20番礼所・岩之上堂がある。このお寺は、荒川を望む「大覗岩」(ルビ:おおのぞきいわ)という砂岩の絶壁の上に建つ。お堂の下から河原に降りる崖の道があり、「乳水場」(ルビ:ちみずば)という崖下に通じている。ここには次のような伝承がある。「貧しい子持ちの女が生活に困り乳母をやっていたが、自分の子に飲ませる乳が出ず、荒川に身投げしようとしたその時、”岩の下から垂れ落ちる水を飲めば、乳は豊富にでる”と声を聞き、その清水を飲むと、乳房が張り乳がほとばしり子供は元気になった」。岩場の天井からまさに乳のように垂れた岩がいくつもあり、そこから水が滴っている。段丘礫層ハケ下の湧水ポイントだ。実にありがたい話ではないか。

 江戸の人びとは地形をメディアとして捉え物語化する構想力があった。秩父34礼所に関するガイドブックや図絵も多く出版され、メディアとランドスケープが一体となりながら、人びとは感性を持ってその場を体験し、巡礼した。各々の礼所には歌が設定されており、岩之上堂では「苔むしろ 敷きてもとまれ 岩の上 王のうてなも 朽ちはてる身を」と詠われている。「身分が高い人であれ、朽ち果てる身であれ、苔むしろを敷いて岩之上堂に居りなさい。ここはすべての人を救う場なのですよ」と私は解釈する。礼所とは、あらゆる人びとに開かれた、愛と再生の一大ポップ・カルチャーではないだろうか。

写真:渋谷健太郎
続きはソトコト9月号にて

2013/09/15

夙川、芦屋・兵庫 海と山のあいだのモダン都市。


ハビタランドスケープ #014 雑誌「ソトコト」連載
夙川、芦屋・兵庫
ー海と山のあいだのモダン都市。ー











 
阪神間は海から山まで4キロほどの中に驚くべきほど多様な文化が存在する。
モダンな高級住宅地と一体化したランドスケープを歩く。


夙川をさかのぼる

 艶めくあずき色の車体、ふさふさな苔色の座席に木目調の内装。京都の和菓子を思い起こすクラシックな配色。梅田から阪急電車に乗り込むと、ふるさとに帰ってきた安堵感に包まれた。大阪出身の私は、毎日この電車に乗って大学に通学していた。淀川を渡った阪急神戸線は、十三駅から大きく弧を描きながら西へと進み、武庫川を越えると、前方に山が迫る。ここから先は海と山に囲まれた細長い都市が続く阪神間だ。阪急電車は夙川駅に停車し、私はホームに降り立った。駅の一部は川の上に架けられていて、緑あふれる夙川の流れをホームから眺めることができる。夙川は六甲山から大阪湾までわずか6キロの距離を下る二級河川であるが、大正期から育まれたモダンな住宅街のヒーリングスポットとして、ブティックやスイーツショップが立ち並ぶ街と一体化したお洒落な空気感を漂わせている。さっそく歩いてみよう。
 夙川は白い川だ。川底に白い砂が堆積し、水はその上を撫でるようにさらさらと流れていく。この砂は上流の六甲山系の地質である花崗岩が風化により砕かれ、運ばれてきたものだ。川幅は5mほどでそれほど広くはない。水面すれすれに細い歩道が付けられていて、ずっと歩くことができる。御影石の護岸の上から、桜と松が川に涼しげな影を落としている。川幅に比べてかなり広がりがある土手には、立派な松が立ち並び、所々にベンチや遊具がある。子供を遊ばせる母親、本を読むおじさん、犬を連れた若い女性と、人びとは思い思いの時を過ごしている。川沿いの一帯は緑地公園となっていて、上流から下流まで連続したグリーンベルトが街を横切っている。公園と河川が一体化した緑豊かな夙川だが、最初からそうあったわけではなかった。夙川周辺はもともと松林が広がっていたが、1920年代に住宅の開発圧が強まり、松も伐採され、かつての環境が失われつつあった。良質な住宅地の喪失に危機を覚えた住民たちは、自ら寄付金を出し行政に働きかけ、1932年に公園整備事業が始まった。戦後、松の生い茂る河川敷に千本の桜が植栽され、現在の夙川の原型が誕生した。
 夙川は、長さ6kmで源流から河口まで高低差500mを下るという日本でも有数の急傾斜なのだが、勾配を少しでも解消するために段差を設けている。下から眺めると幾つかの小さな瀬がひな壇のように並んでおり、奥行のある風景だ。どこまでこの川は続いているのだろうか?高校生の時、私の学校から夙川までは一時間半も離れていたにも関わらず、授業をサボりぶらぶらするお気に入りの場所だった。当時も今も、川の上流方向の突き当りに、まあるい帽子のような山、甲山(かぶとやま)が見える。山の中腹まで、住宅がぽつぽつ建っており、いまだ行ったことのない未知の世界への憧れをそそり、誘われるままに白い川をさかのぼってしまうのだった。

 






















 川を歩くと、瀬を渡る飛び石や、暗渠が接続する開口部、阪急電車のガーター橋などと出くわし、都市インフラと河川がどう繋がっているのかを見れることが非常に楽しい。しばらく進むと苦楽園という駅に着いた。この路線は、夙川駅から分岐するわずか三駅だけの短い阪急甲陽線で、1924年に開通した。当初は温泉地であった終点の甲陽園に行楽客を運ぶ路線であったが、次第に進学校である甲陽学院高校など学校も整備され、昭和に入ってから高級住宅地として定着することになる。阪急電鉄は小林一三によって創業された。彼は非常にマーケティング戦略に長けており、終着駅に宝塚歌劇団など行楽地とセットになった住宅地を開発し、一方のターミナル駅に百貨店を建設し輸送客を増やした。鉄道会社が、都市開発をトータルに行う手法のモデルを生み出し、東急や西武など東京の私鉄にその方法は引き継がれている。夙川を始め、芦屋、岡本など高級住宅地が並ぶ阪急沿線には、大正、昭和期に、阪神間モダニズムと言われるモダンカルチャーが花開き、谷崎潤一郎の文学作品などもその空気感の中で生まれている。
 苦楽園のガーター橋を抜けると、河川敷は一気に広がり草地が現れる。このあたりは山から降りてきた急流が平地に出るポイントで、昔から水害も多い場所だ。土木的には、山間部から増水時に土石流が下ってきたとき、受け止めるためのバッファーゾーンとして設計されていると見るべきだろう。急勾配の道を上がると、もうあたりの風景はすっかり渓谷の中に取り込まれている。カワセミの青い姿が水面を横切る。渓谷を上がった住宅街には、どの敷地からも海を望むことができ、眺望は素晴らしい。おばあさんが杖をついて上がってきたが、正直、車がない生活はつらいかもしれない。時刻は正午だ、初夏の太陽が容赦なく照りつける。このあたりで切り上げ、甲陽線に乗り、夙川駅まで戻ることにしよう。













六甲山がもたらしたもの

 阪急夙川駅から南へ、海の方へと下る。JRを越えたあたりから、街は山の手から徐々に庶民的な雰囲気に変わり、阪神電鉄の沿線では阪神間の下町となる。歩いて数十分の距離だが、山から海にかけて沿線ごとに街のノリがまったく違うところが興味深い。灘区から西宮市にかけての海岸部には、「灘五郎」と呼ばれる酒蔵が集まったエリアがあり、「灘の生一本」で江戸時代から名を馳せている。上質の酒米(山田錦)、六甲山から生まれたミネラル豊かな水、そして、「丹波杜氏」といわれる熟練した職人集団の技が特徴だ。日本酒メーカーの「白鹿」の杜氏・小川義明さんにお話を伺った。
  杜氏とはどのような存在なのだろうか?
 「酒造りは集団作業なので、男たちのグループを統率し、様々な役割をうまく指示する棟梁のような存在です。」(小川さん)。
 かつての丹波杜氏は夏は田で米をつくり、冬に酒造りを行う半農半Xのような存在であった。酒造りの基本といえる麹菌は、酒の味を決める酒蔵ごとの秘伝なのだが、昭和初期までは「ええのができたからお前も使えよ」と、杜氏間で共有していた時代があった。また、日本酒づくりには、良質な水は欠かせない。灘五郎では「宮水」と呼ばれる、六甲山からの砂礫層を流れる伏流水を使っている。
 「宮水は酒の発酵をうまく促進するリン酸、カリウムなどの成分が多く、品質を悪くする鉄分、マンガンなどが少ない水です。宮水はピンポイントな井戸場でしか湧きません。その場所は阪神高速の南側の一角にあります。夙川の下層から西宮神社の下を流れてくる「戎伏流」など三つの伏流水が合流し、絶妙なブレンドをなして宮水が出来上がっています。このあたりは縄文時代には海だったので、ちょうどよい塩梅の塩分が混じっていることも水にいい結果を与えています。地質が宮水には非常に重要なのです。」(小川さん)
 阪神高速は、この伏流水の水みちへの影響を減らすために、この部分だけ、橋桁の間隔を大きく取っているという。また、周辺の建設工事も西宮市は厳しい規制を設けており、「宮水」を守るため様々な努力が行政・民間が一体となって行われている。日本の年間日本酒生産の1/5を生産する灘五郎の宮水は、地質学的な偶然がもたらした、海と山の合流地点の恵みによってもたらされているのだ。
 歴史を遡ると、夙川の原型は、たびたび水害をもたらす暴れ川であった。やがて川の扇状地は入り江を埋め立て、平地ができあがり、鎌倉時代に、夙川は西宮神社の西側を流れるように付け替えられ、現在の河道となった。夙川の河口部分はどうなっているのだろうか?埋立地に残骸が残るだけかもしれないが、とにかく向かってみることにする。
 河口付近は両岸をコンクリートで固められている。川が海に開くポイントで、目の前に白い砂浜が広がった。穏やかな波がなぎさに押し寄せている。何も期待していなかっただけに驚いた。ダイサギやシギたちが干潟をつついている。砂地を這うハマヒルガオや、ハマユウが海風に揺れ、貴重な海浜植生が残っている。海の前方には、人工島・芦屋シーサイドタウンのモノリスのような高層マンション、阪神高速湾岸線のアーチ橋が立ち並び、近未来的な風景だ。御前浜と呼ばれるこの浜には、かつて海水浴場があり非常に賑わったが、高度経済成長期に海の汚染が進み、1965年に海水浴場は幕を閉じている。白い砂は夙川の砂と同じものだ。非常に多くの砂が運ばれてきたことが分かる。山は刻々と崩壊し、砂浜の一部に生まれ変わっていた。



続きはソトコト2013年9月号にて
写真:渋谷健太郎