2013/05/31

ハビタランドスケープ011/オオカミが棲む森と里の風景


オオカミが棲む森と里の風景


都心から一時間の青梅は、山奥から下る多摩川が武蔵野台地に出る扇状地にある。
集落で見かけたオオカミの御札の謎を追い、武藏御嶽神社を訪ね、奥多摩の森と人間社会のエコシステムを明らかにする。





青梅/一週間遅れの春
 春のスイッチを入れるのは誰だろう?
 今年、東京の桜はいつもより二週間早く咲いた。ひとたび春が始まれば、正確なステップで春は進んでいく。ツツジ、ボタン、フジ…、春雨前線が通り過ぎる度に、ニューカマーたちと遭遇する。
 前日の嵐で都心の桜がほぼ散った、快晴の4月頭、青梅を訪れた。青梅は新宿から中央・青梅線で一時間。奥多摩の山谷から下る多摩川が武蔵野台地に出る扇状地に位置する。青梅駅から坂を下り、市の中心を流れる多摩川の河川敷を目指す。ゆるくうねる路地を軽快な足取りで降りていく。黄色いレンギョウの花に止まるルリシジミ。庭先の紅梅とピンクのボケの花。電柱を覆い尽くす赤い椿。春は一気に押し寄せている。
 河原に着いたその時、息を飲んだ。まっしろの桜が目の前に広がっている。一週間、時間が巻き戻されたようだった。電車で1時間の距離だが、サクラ時計では都心から一週間の距離に青梅はあるのだ。
 川幅は大きく広がり、S字に屈曲している。薄いターコイズブルーの水面に白瀬が煌めく。上流から勢いよく流れてきた水は、屈曲部でひとまず跳ね返り、中央部の浅瀬を乗り越える。浅瀬の砂利が櫛の目の役目を果たし、水は幾筋にも分かれて押し出される。水流は光り輝く髪の毛のようになびき、対岸を舐めていく。岸からは、綿飴のように柔らかそうな桜の枝が水面へと腕を伸ばす。山地からやってきた水と、台地の始まりの桜が出会う瞬間だ。


















 川に近い位置に江戸時代以前の旧街道があり、甲州へと繋がっている。近世の青梅街道は、青梅線に沿った小高い場所を通る。青梅街道は、江戸城にこの地で採掘される石灰を運ぶために開かれた。漆喰に使われる石灰の他に、山地で生産される木炭、蚕から紡いだ生糸が、武蔵野台地の野菜、米と交換される市として青梅は栄えた。現在でも青梅街道には、古い商家が軒を並べている。「ピース」のたばこの看板、「サクラカラー」「塩」と記された看板が、赤いトタン屋根に掲げられ、狭山茶が木櫃で量り売りされている。そんな昭和調の街道沿いをぶらぶら歩いていると、ある商店の玄関に不思議な御札に出くわした。ヒイラギの小枝に、イワシかアジの頭を突き刺したものを、ガムテープでべりっと柱に貼ってある。その横に御札が貼られており、墨塗りで動物の立像が描かれている。立像は滑らかな線でデザインされてあり、キャラクターとしてかっこいい。すくっと首が伸びた姿は一見、犬のようだが、鋭い牙があり、尖った爪がある。全体にほっそりして、筋肉質だ。舌が炎のように伸びている。犬ではない、これはオオカミではないか。絵の上には、楷書でこう書かれている。「大口眞神 武藏国御嶽山」。御嶽山、それは青梅駅から奥多摩方面へさらに分け入った山の上にある修験道の聖地だ。幸い、青梅線で御嶽駅までは7駅で移動できる。御札に描かれたオオカミのような「大口眞神」とは何者なのか?我々はその答えを求めて、御嶽山へ向かうことに決めた。



























御嶽山/オオカミの森
 御嶽駅からバスでケーブルカー乗り場まで移動する。途中、水力発電施設に咲く桜が車窓を掠めていく。ここから25度の急勾配をケーブルカーは6分で登りきり、標高831mの御嶽山駅に到着する。紫色のミツバツツジが少し咲き始めている。谷を挟んだ、山の頂に集落の屋根が見える。宿坊群と社殿だ。天空都市、という言葉が頭に浮かぶ。
 坂が急だ。やっと登り切ったと思ったら次の坂が現れる。膝ががくがくになる。藁葺き屋根に苔が蒸した民家が現れる。「日本昔話」の里に迷い込んだような雰囲気を醸している。次につげ義春の漫画に出てきそうなひなびた食堂、おみやげ屋の通りを抜けると、ようやく鳥居と石段の元にたどり着く。階段の脇には石碑がずらっと並ぶ。川崎市や調布市の町内会らしき名前がある。これらは「講」と言い、関東各地から代表者がお参りした際にコミュニティの住民の名を刻んだ寄進物だ。振り返ると、低い稜線の向こうに、埼玉、東京の都市の眺望が広がる。狭山丘陵にある西武ドーム、奥には靄がかったスカイツリーが見える。
 真っ赤な本殿の両脇に、青銅の獣が並んでいる。どっしりと象のように太く長い前足に鋭い爪、盛々と張った胸にボクサーのようにスリムな腹、そして大きく開き咆哮する口。狛犬といったものではない。どこにも見たことがない力強い造形。どうやら御札の「大口眞神」と同じ生きもののようだ。社務所にて取材に訪れた旨を告げると、笑顔で我々の前に現れた、祭事部長・須崎直洋さんが対応して下さった。
 
――「大口眞神」が何者か知りたくて訪れたのですが、まず神社の歴史を教えて下さい。
 「奈良の吉野から、蔵王権現をお呼びして祀ったのが起源とされており、行基がいた奈良朝時代と伝わっています。その後、関東の修験道の蔵王信仰の中心として栄えました。武将の信仰が厚く、関東武士の棟梁と言われる秩父の畠山重忠は兜を奉納しています。」
 権現とは、仏の姿が山岳に仮象となり現れるという思想である
 「江戸時代に入ってからは御師(ルビ:おし)と呼ばれる聖職者が、関東一円に信仰を広めて行きました。御札を配り、民衆は講を結びました。もともと、御師は神社の神主(社家)・金井家より格下の存在でしたが、力をつけ、山の上にも住めるようになりました。私も18代目の御師です。32軒の御師が350年ほど、山上にずっと住んでいます。」
――オオカミとの関係はどうでしょうか?
 「日本武尊(ルビ:ヤマトタケル)が関東平定をなされたとき、山中で邪神に騙されたのをオオカミに救われたという話が日本書紀にあります。伝説では、白と黒の二匹のオオカミが日本武尊を導いたと聞き及びます。もともと埼玉、山梨、群馬の森林にはオオカミが生息していました。人びとはオオカミを神として捉えてきて、猟師も撃てなかったのです。オオカミは本来ご眷属、神様のお使いという扱いでしたが、御嶽山神社では「大口眞神」として神様の存在となり、災いから人びとを守る神として御札にも描かれたのです。」
 社殿を出て、須崎さんと山上の境内を歩く。
 「御祭神の大麻止乃豆乃天(ルビ:おおまとのつのあま)は、珍しい神様で、占事を司る神様です。奈良朝で行われていた太占(ルビ:フトマニ)という、雄の鹿の肩甲骨を炙り、農作物の富凶を知る占いがありますが、現在も行っている神社はここと群馬県の貫前神社しかありません。」
 須崎さんが太占を行う場所を指差して下さった。平場にぽつんと石台が置かれている。その背後は深い樹林だ。
 「社域の森は昔から不抜の地として、木を切りません。この森は自然の遷移が進んで、最終段階である極相林となっています。私が子供の時は、大杉の上でブッポウソウが鳴いているのをよく聞きました。御嶽山は富士山のような単独峰でなく、奥の院、大岳山、御前山も含めて一帯を御嶽と呼んでいました。「嶽」とはごつごつと険しい山が連なっているという形象を示しています。そこを修験者が駆け巡っていました。」
 ブッポウソウとはフクロウのコノハズクのことである。フクロウが棲む深い森であれば、かつてはオオカミも駆け巡っていたのだろう。社域の極相林に入ってみた。芽吹いたばかりの広葉樹中心の明るい森に、ツガ、モミなどの針葉樹が垂直のアクセントをつくる。林床にはカタクリ、スミレなど薄紫系の花が所々咲いている。遠く甲州の山々が奥に連なっている。思わず山道を全力疾走してみる。空気が新鮮なせいだろうか、不思議に息が切れない。全身が爽快な気分に包まれる。動物のように森を駆け抜け、徐々に森と一体化していく。トレイルランナーも、修験者も体感感覚は似ているのでないだろうか。もう少し深く、奥多摩の森に分け入ることにしよう。 







































続きは「ソトコト」6月号にて
写真 渋谷健太郎