2013/10/02

ハビタ・ランドスケープ015 秩父・埼玉県

ハビタ・ランドスケープ015
秩父・埼玉県     地球の足跡を巡礼する地。

2億年以上前からの地質が刻まれた盆地である秩父は、
江戸の霊場でもあった。時空を超える旅が始まる。


ちちのき生い茂る秩父へ 
 鉄道がなければ来れない深い山の中、単線のローカル線は渓谷を行く。山腹の民家は家も畑もすっぽり緑の中に包まれている。長い長いトンネルを越えると、夏の雲が山脈の上に広がった。青い山脈に囲まれた秩父盆地に西武秩父線はゆるゆると入っていく。
 秩父と書いてちちぶ、と呼ぶ。不思議な音感だ。まるやかでありながら無骨、古代の野性味すらうっすら感じる。地名の由来には様々な説がある。アイヌ語でチチャプ(河流)とするもの、山の背をチップと呼んだというもの、当地に多い鍾乳洞で鍾乳石が滴る様子を乳(チチ)と言ったもの。興味深い説としてチチの木、すなわちイチョウが生い茂っていたから乳生(チチブ)と称するというものがある。なぜイチョウのことをチチの木と言うかというと、イチョウの木に乳房のような気根ができるからだ。江戸の国学者・賀茂真淵は、「ちちのき」はイチョウの古語と言う。イチョウはとても古い植物で、初めて地上に現れたのは古生代末期の2億5千年前で、中生代ジュラ紀の1億5千年前に最盛期を迎え「生きる化石」と呼ばれている。ちょうどこの年代の地層は、西南日本では帯状に分布しており、最初に発見された秩父の名前を取って「秩父帯」と言う。秩父はナウマン象で有名なナウマン博士が明治11年に訪れた、日本の地質学発祥の地でもある。市街には、イチョウ並木を始め、巨大なイチョウを至る所に見ることができる。「ちちのき」が生い茂る、太古の記憶がアーカイブされた秩父に時空を超えてトリップしてみよう。


 いま、長瀞(ながとろ)という渓流の岸壁に立っている。巨大な白い岩盤を水流がくり抜いた深みに、ターコイスブルーの水が真夏の太陽を反射している。女の子たちを乗せたゴムボートが上流から流れてきて、歓声を上げた。目があい、思わず手を振ると、にっこり手を振り返してくれる。川の背後には「岩畳」と呼ばれる白いテラス状の岩盤が広がり、松の樹皮を昆虫の視点で見たような、でこぼこの立体的な地形になっている。「結晶片岩」というこの岩石はもともとは1億年ほど前に太平洋海底に堆積された地層だが、どのような旅を経て目の前に現れているのだろうか? 想像してみよう。まな板の端になすを強く擦り付けると、皮だけが剥けてしわしわになって残る。まな板が大陸プレート、なすが太平洋プレートだ。シワは太平洋の地殻の残滓で、「付加体」と呼ぶ。太平洋プレートは、さらに大陸の下への沈み込む。シワの一部も地下深くに引きずり込まれ、高圧な環境で、ばらばらな鉱物たちが均一方向に再結晶化したものが結晶片岩だ。この岩石が造山運動で盛り上がり、地上に現れたのが、長瀞のランドスケープだ。結晶片岩は一定方向に割れやすいので、長瀞では荒川が南北方向に岩盤を割って流れ、草木たちも岩を縦に切って萌え出ている。大陸と太平洋が細長く向き合う日本列島には、帯状に同じ性質の結晶片岩が分布し、房総半島から関東山地、紀伊山地、四国山地、九州山地まで長さ1,000kmにわたる結晶片岩のラインが弧となっている。このラインを「三波川帯」と呼び、南を秩父帯と接し、北で列島の大断層である「中央構造線」と接している。南西日本列島は、太平洋から次々とやってきたプレートの残滓がスライス状に積み重なって産まれたのである。

江戸のジオロジー・秩父礼場巡り
 眩い太陽を避けて、荒川から山側に入り涼を求める。しばらく車を飛ばし水潜寺に着く。秩父盆地には「秩父札所」という霊場がある。34ヶ所の観音院が一巡100kmほどの範囲の中にあり、徒歩で5日から7日ほどで巡拝することができる。もともとは修験道の岩窟やささやかな庵の観世音が、僧や土地の人びとの力でまとめられたものである。江戸時代に入り、江戸の武家や町人、とくに社会的制約の多かった女性に流行が起こり、寛永71750)年には一年に7万人の人びとが訪れたという。水潜寺もそのひとつの34番礼所だ。
 沢を横目に、苔むした石垣が続く坂を上がる。ひんやりと涼風が火照った肌を撫でていく。その風はどうやらお堂の裏の岩壁からやってくるようだ。石仏が点在する岩場にはぽっかり穴が空いていた。冷風はその穴から吹いてくる。冷たい。天然のクーラーだ。石灰岩の穴の中には水がちょろちょろと流れ、からだひとつ分だけ身を置くことができる。「水潜りの岩屋」と呼ばれ、巡礼者たちは最後に訪れ、ここをくぐって再生の胎内帰りをし、長命の水をいただき、俗世に戻っていく場所であったという。穴の周りには雪国の高山植物であるイワカガミがピンクの花を咲かせていた。
 秩父盆地の中央を流れる荒川は、陸地を削り取り、幾つかのひな壇状の地形である段丘を残している。市街地北部の段丘面の上に19番札所の龍石寺がある。境内には三途の川で死者の脱衣を剥ぎ取る脱衣婆(ルビ:だついばあ)を祀るお堂もあって、少しおどろおどろしい雰囲気だ。高台になっている敷地は、黒い大きな砂岩がもっこりと露出し、観音堂はその上に建っている。伝承では、この地でかつて大干ばつがあった時、弘法大師が祈祷したところ、盤石が二つに割れて、龍が昇天し、雲を呼び雨を降らせ人畜草木みなよみがえったという。傍らの岩には「ポットホール」という、川底のくぼみに石が入り込み、渦巻き流のため石が回転してできたなべ状の穴がある。激流の地形の記憶が、人びとの関心・懸念にまつわる物語に昇華され、まことに興味深い。



 龍石寺から、荒川を秩父橋で対岸に渡った場所に、20番礼所・岩之上堂がある。このお寺は、荒川を望む「大覗岩」(ルビ:おおのぞきいわ)という砂岩の絶壁の上に建つ。お堂の下から河原に降りる崖の道があり、「乳水場」(ルビ:ちみずば)という崖下に通じている。ここには次のような伝承がある。「貧しい子持ちの女が生活に困り乳母をやっていたが、自分の子に飲ませる乳が出ず、荒川に身投げしようとしたその時、”岩の下から垂れ落ちる水を飲めば、乳は豊富にでる”と声を聞き、その清水を飲むと、乳房が張り乳がほとばしり子供は元気になった」。岩場の天井からまさに乳のように垂れた岩がいくつもあり、そこから水が滴っている。段丘礫層ハケ下の湧水ポイントだ。実にありがたい話ではないか。

 江戸の人びとは地形をメディアとして捉え物語化する構想力があった。秩父34礼所に関するガイドブックや図絵も多く出版され、メディアとランドスケープが一体となりながら、人びとは感性を持ってその場を体験し、巡礼した。各々の礼所には歌が設定されており、岩之上堂では「苔むしろ 敷きてもとまれ 岩の上 王のうてなも 朽ちはてる身を」と詠われている。「身分が高い人であれ、朽ち果てる身であれ、苔むしろを敷いて岩之上堂に居りなさい。ここはすべての人を救う場なのですよ」と私は解釈する。礼所とは、あらゆる人びとに開かれた、愛と再生の一大ポップ・カルチャーではないだろうか。

写真:渋谷健太郎
続きはソトコト9月号にて