2013/12/31

ハビタランドスケープ#018 東京湾・東京

「ソトコト」連載:ハビタランドスケープ #018
 東京湾・東京
埋め立ての履歴。

遠浅の干潟が広がっていた東京湾は、どのように埋め立てられてきたか?
葛西臨海公園、ゴミ処分場、羽田空港を歩く。




街になった干潟

 うっすらと漂っていた朝靄が晴れ、東京湾に朝日が照り始めた。レインボーブリッジを渡った後、有明、東雲、辰巳と首都高湾岸線を快適に車は走り抜ける。丸の内のオフィスビル群を遠景に、タワーマンションがにょきにょきと林立する風景。それは、多摩ニュータウンなど内陸に開発が進んだ郊外に対して、海側の「第三の郊外」とも呼べるかもしれない。荒川を越え、葛西で高速を降りると、環七の終着点に行き着く。15メートルを超えるワシントンヤシの街路樹が整然と並ぶ街区、そびえ立つ大観覧車。この土地では何もかもが巨大なスケールで迫ってくる。人工的な都市計画が行き渡った埋め立て地の先っぽの公園、葛西臨海公園へとわれわれは向かった。
 葛西はもともと遠浅の海岸がつづく小さな漁村で、沿岸の海藻、貝類が豊かに採れた。とりわけ海苔の栽培が盛んに行われており、「葛西海苔」としてブランドが知られていた。戦後、地下水汲み上げによる地盤沈下があたり一帯で進み、西葛西2丁目では、1968年には1年間に2389センチの沈下、中葛西3丁目では1970年までの80年間で、2メートル以上の沈下が記録されている。この結果、広範囲で私有地が海面下に水没してしまう「水没民有地」が出現した。葛西の埋め立て計画は、この事態を解決することと、新たな都市開発を抱き合わせにして事業化されることとなる。1972年、東京都建設局により「葛西沖開発事業」が開始され、土地区画整理、埋め立て事業、道路事業、公園・緑地計画が行われた。総事業費は927億2600万円(民間建設費も合わせると総投資額5940億円)、土地区画整理地379・87ヘクタールのうち、約半分は水没民有地であった。出現した新しい街、それは海の上のニュータウンと呼ばれるにふさわしい。スーパーブロックと呼ばれる大きな街区で区切られ、大規模な高層集合住宅のほか、葛西流通センター、東京都中央卸売市場葛西市場、葛西下水処理場などのインフラ施設が並ぶ。沖合の港湾施設(コンテナ積み下ろしなど)に届いた物資の流通拠点として、この地はベストポジションにあった。その一方で失われたのは遠浅の干潟の環境だった。すでに荒川、江戸川からの汚濁水流入にともなう水質悪化により、1962年には漁業は幕を閉じていたが、江戸川河口には、大三角などと呼ばれていた広大な干潟があった。江戸時代以前には、現在の中川に利根川と荒川が流れ込み、さらに渡良瀬川が太日川(江戸川の旧名)として東京湾へ注いでいた。そのため河口域には大量の土砂が堆積する干潟環境となり、様々な生き物が生息していた。これらの干潟は沖合の三枚洲を除いて埋め立てられたが、その代償地として建設されたのが、葛西臨海公園だった。
 葛西臨海公園駅からまっすぐに延びるプロムナードを歩くと、突き当たりの丘の上にガラスのキューブ建築がある。東京国立博物館法隆寺宝物館などの作品で有名なモダニスト建築家・谷口吉生の設計によるもので、スクエアの大きな開口部から海が切り取られ、ガラスの中を行き交う人びとが浮遊感を演出している。建築が立地する丘は、もちろん人工のマウントで、後背地の江戸川区のゼロメートル地帯を高潮、津波から守る巨大な防潮堤としても機能している。なだらかな丘を降りて松林を越え、吊り橋を渡ると浜だ。渚が波をトレースして曲線を描き、コメツキガニがささっと隠れる。ハマグリであろうか、砂地の穴からは気泡が噴き出ている。女性の写真家が一人、静かにそんな情景を撮影している。ここは、砂を他所から持ってきて完全に人工的につくられた浜だ。東側にもうひとつ同じサイズの人工浜があり、そちらは完全に人の立ち入りが禁止され、生き物のサンクチュアリとなっている。白いダイサギが1羽やってきて、ハゼなどの小魚を狙って、ホバリングしてくちばしを水面に叩きつける。高層ビル群を舞台幕とした軽やかなダンスは、見飽きることがなかった。




海とゴミ


 東京ゲートブリッジの巨大なボックス状の橋梁を車は駆け抜けていく。到着したのは「中央防波堤外側埋立処分場」と呼ばれる東京湾埋め立ての最前線の地だ。ここでは東京23区内の家庭ゴミなどの一般廃棄物、上下水道施設から出される都市施設廃棄物など年間60万トン(2011年度)を受け入れている。もともと東京湾の埋め立ては江戸時代から都市から出されるゴミの受け入れ先として始まった歴史がある。築地、八丁堀、越中島、深川などは江戸期300年間に埋め立てられた。その後、明治期に入り、東京湾航路掘削のための浚渫による土砂処分として芝浦、東雲などが埋め立てられ、さらに1923年の関東大震災のガレキ処分地として晴海、豊洲の埋め立てが始まった。ゴミの埋め立て地として思い出すのは「夢の島」だが、こちらは1957年から東京都の処分場として埋め立てが始まり、1967年には役目を終えている。夢の島の一角には、1954年のビキニ環礁での水爆実験により被災したマグロ漁船「第五福竜丸」が保存されている。夢の島と隣接した15号処分場に廃棄されようとしていたのを、市民の声により核の「遺構」としてゴミの中から取り出され、展示されているのであった。築地にあったはずの、被曝したマグロを処分したモニュメント「原爆マグロ塚」も展示館の横に移設させられているのは、いかなる理由であろうか。




photo:渋谷健一郎

続きはソトコト1月号にて
http://www.sotokoto.net/jp/latest/?ym=201401

ハビタ・ランドスケープ#017 多摩川・東京/神奈川 

「ソトコト」連載ハビタランドスケープ#017
左岸と右岸の流域史
多摩川・東京/神奈川

多摩川を挟む東京側の左岸と神奈川側の右岸は、近いようで全く異なる
歴史と文化を持つ。その意外な共通点を二子玉川を起点に探る。




王たちの丘
 二子玉川の駅はふわっと川の上に浮いている。東京都でもないし、神奈川県でもない、中間地帯のホームから、広い多摩川の河原を見下ろすのは、都市の中にあってとてもファンタスティックな時間だ。田園都市線の地下路線から、一転、光と風の世界に送り込まれることで、より劇的にその効果が高まっている。ここに橋が掛かったのは、そう遠い昔のことではない、昭和2年(1927)のことだ。それまでは「二子の渡し」と呼ばれる渡し船が両岸をつないでいた。遡って江戸時代、幕府は多摩川を江戸防衛のフロント・ラインと位置づけていた。そのため、架橋に制限があった。また、六郷付近に慶長5年(1600)に橋を架けたことがあったが、たびたびの氾濫で橋は流され、普請コストに見合わず橋を諦めた。以来、数百年のあいだ、多摩川に橋は架けられることはなく、渡しで行き来することとなった。ここに橋が架けられたのは、1923年の関東大震災後の復興支援と、在京陸軍の相模原への演習時の移動が理由となった。東京側は橋を多摩橋、神奈川側は二子橋と、それぞれのサイドの地名を主張しあい、結局二子橋という名称に落ち着いたが、二子玉川という地名も、このボーダーライン上の性格に由来する。二子玉川という名前にも込められている、多摩川を挟む右岸と左岸。川を挟んだ空間に、どのような歴史と世界が広がっているのか、探索に出かけることにしよう。
 二子玉川ライズのガラスのアナトリウムを通じて空が見える。二子玉川駅東口に2011年にオープンしたこの施設は11.2haの都市最大の再開発だ。隣接部分には大きな都市公園も計画され、多摩川へとゆるやかにつながるアーバンデザインが2015年に完成する。ライズを抜けて、住宅地を少し歩くと、樹林に覆われた斜面が見えてくる。松などの木立の中に、趣のある低層マンションが点在している。この崖は、国分寺崖線。本連載でもたびたび登場した、国分寺から世田谷まで続く、旧多摩川が武蔵野台地を削りとった崖線だ。崖線の下には小川の丸子川が流れており、湧水が所々染み出しているので水はかなり綺麗に見える。道路橋の他に、いくつかの小橋が架かっているのだが、それは一軒の邸宅専用の橋であったりして、穏やかでゆとりがある空間だ。フランク・ロイド・ライトの建築のようなクラシックな建物が、小川の奥に佇んでいて、表札には「整体協會」と刻まれていた。ここは明治44年生まれの整体家・野口晴哉が開いた野口整体の本部であった。樹林の丘を背負い、目前で清流を結界とする。さすがに気がいいポイントを選んでいるなと感心する。





 しばらく歩くと鬱蒼と茂る樹林があり、公園となっていて、ムクノキ、モミジなどが覆う斜面を上へ抜けることができる。台地の上は「上野毛」という地名で、東急グループの創立者、五島慶太の美術コレクションを収めた「五島美術館」がある。崖線の広大な樹林を庭園としており、眼下には東急大井町線、さらには二子玉川ライズのタワーマンション、そして多摩川を見下ろすことができる。まさに東急王国一世紀の発展を眺める玉座のような場所だ。このあたり野毛は武蔵野台地の南のエッジなのだが、鉄道の王のみならず、かつて5〜7世紀の王たちもたくさんの古墳を築いた。これらの古墳は「野毛古墳群」と呼ばれている。環八通りを自由が丘方向へ数十分歩くと、等々力渓谷の手前に「野毛大塚古墳」がある。全長86mの帆立貝の形をしたこの古墳はかなり大きい。高さ11mの円墳の前に、小さな四角い前方部がついており、きっちりと南西の方向に振られている。地図上では、この方角の延長線上に富士山がある。円墳に登ると、いまは建物があり富士山は見えないが、とてもよい眺望だ。富士山は「不死山」であったという伝承がある。巨大な古墳は、多摩川のはるか向こうにそびえる富士山への軸線を意識したランドスケープデザインであったかと思う。

photo:渋谷健一郎

続きはソトコト12月号にて
http://www.sotokoto.net/jp/latest/?ym=201312