2014/05/25

ハビタランドスケープ 隅田川・東京都 

ハビタランドスケープ 隅田川・東京都  
”江戸のハビタット”

江戸時代から水辺の名所であった隅田川。
川沿いの社寺の史跡や地形から見えてきた、江戸の生態系保護思想。





川から上がった観音像
旧安田庭園の池で、亀がひょっこり水面に頭を出して、水中から上がってきた。両国にあるこの庭園の池は、汐入と呼ばれ、かつては隅田川の水を引き込み、潮位によって上下する水面によって、水中へ続く石段が隠れたり現れたりする様を楽しむことができた。現在では、隅田川との水路は閉ざされ、人工的に水位変動を生じさせている。しかし、亀はあたかも潮と共に隅田川から入り込んで、庭園に上陸したかのような錯覚を覚えた。


両国から乗った水上バスが鉄橋の下をくぐり抜けると、青空と両岸に満開の桜が広がった。思いのほか川をさかのぼるスピードが早く、町はどんどん視界の後ろに流れ、風が服をはためかせる。ブルーの駒形橋に続いて、真っ赤な吾妻橋を越えると、スカイツリーが目前で天を突いていた。船着場にゆっくり着岸した船から桟橋に降りると、そこは浅草だ。

4月初旬の浅草は、花見客と浅草寺への参拝客でごった返している。人力車に乗ったカップルがスカイツリーをバックに撮影するのが、当世風浮世絵アングルの新しい定番であるようだ。浅草寺の敷地の隣に浅草神社がある。この神社は大変珍しいことに、御祭神が漁師となっている。伝承によると、飛鳥時代に、漁師の浜成・竹成兄弟が隅田川に掛けた網を引いたところ、小さな人型の像がかかった。兄弟は、この地の知識人である土師真中知に相談すると、土師は「これは観世音菩薩である」と判じ、祀ったのが浅草寺の起源だ。兄弟と土師真中知の死後に、発見者である三者を神として祀り、浅草神社となった。


観音像が引き上げられたという場所が、川を少し南に歩いた駒形橋のたもとにある。駒形堂という名のお堂の横には「浅草観音戒殺碑」と刻まれた古い石碑が立っている。石碑には、観音さまが現れた場所だから、ここから上流の待乳山までの川筋十町で魚介の殺生を禁じる、ということが記されてある。江戸時代、元禄6年(1693)に浅草寺第四世宣存が建立したものだ。現在でいう禁漁区であり、生態系保護区といえるのだが、この設定には、当時の将軍・綱吉の「生類哀れみの令」との深い因縁がある。

1685年、将軍・綱吉が隅田川にお出ましになるというので、浅草寺の事務方トップが、万一野犬が将軍に噛み付いたら大変だと考え、浅草付近の野犬を捕らえて殺し、俵に入れて隅田川に沈めて処分してしまった。綱吉はこの事件に大いに驚き、とりあえず将軍の行列の前に犬猫が出てきても構わないというおふれを出した。それ以前から無類の犬好きであったこの将軍は、自分のせいで犬が殺されてしまったことに大変衝撃を受けた。以降、生物保護に関するお達しが出されるが、内容はどんどん過激化していく。1687年には、食料として生きた魚、小鳥、鶏、亀、貝を売買することを禁止、燕を殺した家臣を斬首。1693年には釣り船の禁止が出ている。綱吉の罪の意識が留めようもなく高まっていくようだ。浅草寺は綱吉のお達しに、率先して従うふりを見せる必要があったというわけだ。


綱吉死後、人間より生き物を優先するラディカルな法制度・生類憐れみの令はすぐに廃止されたが、浅草寺付近の禁漁区はそのまま維持されたようだ。それは、宝暦9年(1759年)の火災焼失後の駒形堂の再建の際に、浅草観音戒殺碑も再び立てられたという事実からも分かる。なぜ、綱吉死後も、浅草寺付近のこのゾーンに、禁漁区が続いたのだろうか?そんなことを考えながら、禁漁区の北の端である待乳山へ向かった。


続きはソトコト5月号にて
写真:渋谷健太郎