2013/06/29

ハビタ・ランドスケープ 吉祥寺・東京「林の中に棲む街」

「ソトコト」連載ハビタランドスケープ #012
吉祥寺・東京 「林の中に棲む街」

井の頭公園を中心に緑に囲まれ、若者から家族連れ、お年寄りまで世代を越えて賑わう吉祥寺。
住みたい街ナンバーワンの理由をランドスケープから見つめる。



武蔵野の原型・善福寺公園
 ゴールデンウィークの吉祥寺。井の頭公園の近くに住む私は、自転車に乗り、朝の井の頭池を渡った。爽やかな新緑が水面に揺れる。フォトグラファーの渋谷さんと吉祥寺駅で合流した。今日は自転車に乗って吉祥寺の街を回ってみたい。吉祥寺は自転車で移動するのが、ちょうどよい街なのだ。
 まず、北側の善福寺公園に向かう。武蔵野市の市境を越え、杉並区に入ったところに東京女子大学がある。校内裏手には樹林が鬱蒼としており、木々は住宅地内の巨木として滲み出し、お隣の善福寺公園の樹林にまで繋がっていく。もともとはひとつの樹林であったのが、分離された敷地をまたいで、食べかけのピザのようにまだ残っている。
 周りの住宅地から少し下った窪地にある善福寺公園には、ふたつの大きな池がある。池の周りにはゆったりとラウンドした石の遊歩道がつづき、桜の老樹が枝を垂れ、ロープを低く通しただけの柵によって水面と分けられている。犬を連れて散歩する人や、ストレッチをしているジャージ姿のおじいさんが「おはようございます」と声を掛け合い、ご近所同士のゆるい空気感が漂っている。
子供にしーっと言いながらお母さんが池の島を凝視している。島はジャングルのようにブッシュ化しており、枯れ枝に止まった青いダイサギが水面を凝視している。ポチャンと音がして、ダイサギは小魚を咥え、子供は明るい笑い声を上げた。
 下の池の終わりに堰がある。ここから善福寺川が始まり、途中で神田川と合流して、東京湾に下る。堰の手前の水面には蓮の浮葉が広がっており、向こうにはヨシ原が柔らかく揺れている。奥の岸にはシダレヤナギと、大きく育った三角形のメタセコイアが覆っている。人工物は何も見えない。東京・23区内にいるとはどうも思えない。
 私は大阪育ちなのだが、東京に来て初めて善福寺公園のこの地に立った時、武蔵野台地の「原野」性を感じた。関西は、数千年も人が密集して土地を開発し尽くした感があるのだが、関東の野は江戸開幕から400年ぐらいしか人が使っておらず、野の風情がまだ残っていると思った。のどやかさが非常に心地よく、近所に住んでいた私は暇があるとこの場所に通い、蓮の花が開くのや、トンボの群れが赤く染まるのを、近所の散歩人と共に眺めていたものだ。善福寺公園は、ランドスケープが、棲む人びと、生きものと共にあり続けていることの素晴らしさを教えてくれた場所だった。
 善福寺の上池を跨いで、色とりどりの鯉のぼりが泳いでいる。鯉のぼりの下端には「遅野井」という湧水があり、岩から水が噴き出しているが、現在では地下からポンプアップしたものだ。善福寺池はよそ標高55mにあるのだが、武蔵野台地の南北に渡る55mライン上に、石神井公園、善福寺公園、井の頭公園、深大寺があり、それぞれ湧水地となっている。関東ローム層に覆われた武蔵野台地に浸透した地下水は、ローム層の下の「東京礫層」という帯水層を通ってゆっくりと移動する。緩やかな武蔵野台地の扇状地を下ってきた地下水は、高低差7mほどの崖につきあたり、崖下で露出して湧き出る。このガクンと落ちる地形の変化点が武蔵野台地の標高55mラインにあるのだ。
 鯉のぼりの起源とは、武家が、メスの鯉を餌にオスの龍を呼び込み、龍の力を得ることにあったと聞く。善福寺池に架けられた鯉のぼりは、武蔵野台地の気脈を読み、風水の通り道に誰かがセッティングした壮大なランドアートのように思えた。





移住者と共に発展した街・吉祥寺
 成蹊大学の隣に巨大なケヤキ並木がまっすぐに続いている。このケヤキは成蹊大学が吉祥寺に移転してきた1924年に移植されたものだが、付近の住宅地にもケヤキが点在し、ケヤキの林の下に住宅地が広がっているように見える。
 吉祥寺の住宅街はきっちり細長い格子状に並んでいるが、東西まっすぐの中央線に対して斜めに振られている。これはどういう理由だろうか?答えは吉祥寺成立の歴史から見えてくる。
 ススキが揺れる原野であった吉祥寺を含む武蔵野台地は、火山灰地質のため地表に水が乏しく、湧水地を除けば、長らく人が定住する場所ではなかった。状況が変わったのは、明暦三年(1657年)に江戸の大半を焼き払った大火が起こったことだ。焼け出された多くの町人への宅地供給と併せて、慢性的な人口増加と食糧不足を解決するため、幕府は、町人に武蔵野への移住と新田開発を募った。駒込にあった「吉祥寺」という寺の門前にいた町人たちが移住したのが、吉祥寺の街のはじまりだ。1664年の初めての検地によると、軒数64軒という小さな集落だった。移住者たちは、五日市街道に沿って、幅20間(36m)、奥行き634間(1140m)の短冊状の土地を与えられた。土地は、街道付近に屋敷、次に畑、最も奥に林という共通のレイアウトとなっている。火山灰の土地は痩せていて、畑作を続けるためには、林の枝や落ち葉などを拾って肥料として畑に入れる必要があった。定住者たちは原野にクヌギ、コナラを植え、20年ほどで刈り取り、切り株から出た芽をまた大きくすることを繰り返し、林を維持してきた。林の木は風呂焚き、炊事、建材など生活のなんにでも利用された。ほぼ循環型の生活が300年近く、武蔵野台地の上で行われてきた。

 この街道沿いの短冊状区画は現在の街区としてそのまま残っている。五日市街道や、青梅街道など江戸の放射状の街道は南東から北西へ斜めに走っているのに対し、中央線は東西まっすぐだ。この理由は、中央線の前身である甲武鉄道を開設する時、民家が多かった青梅街道か甲州街道沿いでは住民の反対にあい、民家の少ない中間地点の新宿ー立川間にまっすぐ鉄道を引いたことによる。1899年に吉祥寺駅が開設された当初は、一日の利用者は百人に満たなかった。しかし、1923年の関東大震災後、被災した人びとは、利便性のよい中央線以西に郊外住宅地を求め、それまで農村地帯だった吉祥寺の人口は一気に急増した。


続きは「ソトコト」6月号で
写真:渋谷健太郎