2012/12/28

火山が生み出した高原都市


ハビタランドスケープ006 (雑誌ソトコトにて連載中)

軽井沢・長野県 
火山が生み出した高原都市

明治より避暑地として賑わう軽井沢は、噴火と崩壊を繰り返した浅間山が、長い時間をかけて生み出した高原上に成立した都市だった。
観光名所に露出する地層、山荘に滞在した文士が残した文学、神社に伝わる神話。火山の痕跡を嗅ぎ分け、火山と人間の関係をひも解く。



旧軽井沢の建築学生の聖地

軽井沢の紅葉の時期は短い。10月の終わり、現地の別荘に滞在する知人が、今年は木々が色づくのが遅れていると連絡をくれた。それから雨が降り、ぐっと冷え込む夜が幾日か続いた。再び知人に連絡すると、もう紅葉がピークだと言う。予想以上の自然の変化の早さに慌てて取材日を手配した。その日は天気予報では、あいにく曇、所により雨だった。雨が降らない事を祈り、長野新幹線に乗りこみ現地に向かった。
軽井沢駅午前9時。フォトグラファーの渋谷さんと、今回、軽井沢を案内してくれるあかねさんと合流する。あかねさんの実家はこの地に別荘を持っており、子供の頃から軽井沢によく通っていたという方だ。
駅の北側から旧軽井沢へと続く通りにはイロハモミジが植えられており、真っ赤に染まっている。街路樹の赤は周囲の別荘敷地内の赤や黄色、奥に座する愛宕山の燃えるような色と交じり合って、街全体が色づいている。
つるや旅館を過ぎたあたりから、観光地の喧騒が静まり、一段と美しい紅葉の疎林の中にぽつぽつと建物が立ち並ぶようになる。小さな黒塗りの教会がその一角にある。ここは軽井沢の冷涼な気候を気に入り避暑地として世に知らしめた、カナダ人の英国聖公会司祭A.C.ショーが明治26年に開いた礼拝堂だ。切妻のシンプルな建築は見事にランドスケープと融合している。その先の、小川に沿った道を三人、ぶらぶらと歩く。空気がおいしい。落ち葉や菌類のオーガニックな匂いがする。煙草なんてとても吸う気にならない。小川は不規則な石によって擁壁が組まれており、その上に大きく育ったモミやカラマツの土手によって固められている。近自然工法と、土木を知る者なら呼びたくなる護岸だが、おそらく明治中期に造られたであろうその構造物は、年月を経て自然そのものと見分けがつかなくなっている。
そんな小路をしばらく進むと、その日、最も訪れたかった場所の一つである、ある別荘にたどり着く。建築学科を卒業した者なら誰でも知っている別荘建築の名作、吉村順三の軽井沢の山荘だ。緩やかなスロープを上がりながら期待と緊張が高まる。私も建築学生だった時にこの模型を作った経験があったのだった。対面した瞬間、想像以上に素晴らしいと感じた。一辺7.2mの正方形の木の箱に片流れの屋根、それがぎゅっと首を絞った一階のコンクリート基壇の上に乗っている。コンクリートの片持ち梁のスラブは力強く張り出し、二階の箱を支えている。その下の空間はバルコニーとなっており、ざらっとした手作りの木机とベンチが置かれている。公式な見解では、軽井沢の冬は寒いため、一階は完全にユーティリティ空間としてボイラーを入れ、コンクリートへの蓄熱で二階を暖めるという設計意図が語られている。周囲の環境は背が高い木々が茂り、地形は沢へとなだからに下っていく。二階から眺めれば樹幹に浮かぶように見えるだろう。地続きの自然を一旦コンクリートで切り離し、二階の居間から再び自然との関係を取り結ぶ。そのような意思を、堅固でありながら軽やかに突き出たコンクリートスラブから感じた。



白糸の滝から軽井沢の成り立ちを読み解く

旧軽井沢ロータリーに戻り、ぐるっとターンするとカラマツの並木が真っ直ぐにどこまでも続いている。
黄色に染まったカラマツを挟んで左右の対向車線に高低差がある。高くなった路面にはかつて草軽電気鉄道が走っていた。この鉄道は大正期の1914年に開通し、嬬恋を通り草津温泉まで55.5kmの路線を繋いでいた。その様子は『カルメン故郷に帰る』という1951年の日本初のカラー映画(監督:木下惠介)に収められており、かつての風景を知る上でも一見の価値がある。カラマツ並木は旧三笠ホテルで終わり、ここから先はぐっと山の中に入る白糸ハイランドウエイを走ることになる。この季節にここをドライブする者には、極上の景観が約束されている。取材の女神が微笑んでくれたのだろうか、雲間からお陽さまが照り始めた。山全体が微細な色に塗り分けられた紅葉の風景の中に渓流が流れている。軽井沢町を縦断する湯川の源流であり、次の目的地である白糸の滝に通じている。


白糸の滝は自然を鑑賞する軽井沢の観光スポットの中では、最も人気のある名所かもしれない。高さ3mほどの瀑布ががぐるっと弧を描いて70mに渡って展開されている。白糸という名前に確かに納得感のある、幾条もの水が滴り落ちており、じっと見ているとスローモーション映像のように水の粒ひとつひとつが煌めきながら糸のように編まれていく。水が湧き出す部分をよく観察するとある特徴に気づいた。苔むした岩盤の上に一枚の白い地層ラインが水平に続いており、すべての水はその上から湧き出しているのだ。実はこの地層の上下では地質学的な違いがあり、それを理解することが軽井沢の土地の成り立ちを知るキーとなる。
白いラインの下の地層は、浅間火山の前身である黒斑山火山の山体が崩れ、押し流れたかつての火山の残骸なのだ。軽井沢市街から浅間山を見ると、ふたつのピークがあり、右が浅間山火口、左が黒斑山だ。地図上では黒斑山は東側に開いた馬蹄形をしており、これはかつての火口の輪郭の一部で、東側が崩れ去った。その崩壊が起こったのは2万4300年前のことだった。高速で流れ下った土石は白糸の滝付近の山塊にぶつかり、南北に分かれてさらに流れた。北に流れたものは吾妻川の渓谷を下り、利根川に合流し関東平野に溢れ出た。前橋市、高崎市には厚さ10mほどこの堆積物が台地として広がっている。南に流れたものは南軽井沢で流れを南西に変え、佐久平の千曲川付近まで達した。相当な空間スケールに渡り影響を与えたボリュームの土砂が一気に流れ下った巨大災害であった(*2)。この「塚原土石なだれ」と呼ばれる土石が軽井沢の基層といえる地質だが、その上に度々起こった火砕流や土石なだれがパッチワーク状に積み重なることによって、現在のなだらかな軽井沢高原の地形が造られていった。では、白糸の滝のもう一つの地層、土石の上の地層は何か?この地層は軽石で、2万年前に小浅間山が噴火した際に積った。土石層との間にある白いラインは、平坦な土石なだれの上に湖が形成された時代があり、その湖底に積もった粘土層だ。粘土は水を通さないが、上の軽石は水を通す。それゆえ、浅間山に滲み込んだ豊かな伏流水は、この地層の境界から湧き出ている。
白糸の滝の謎解きはこれで終った。イラストの”浅間山の噴火地質図”も見て頂ければイメージを掴みやすいと思う。


続きはソトコト1月号にて
http://www.sotokoto.net/jp/latest/?ym=201301

photo by 渋谷健一郎

2012/12/16

避難指示区域問題



避難区域の不動産賠償額の基準に地元自治体の反発。
三つの基準が存在。

東京電力福島第一原発事故による避難指示区域の再編で、政府がメドとした4月から半年以上過ぎても、福島県の対象11市町村のうち再編されたのは5市町村にとどまっている。
 残る6町村のうち4町は見通しも立っていない。難航する背景には、国が示した不動産賠償の基準に、自治体側が反発していることがある。
 再編は、事故発生から間もない昨年4月に設定された警戒区域と計画的避難区域が対象。放射線量に応じて段階的に住民の帰還を促すため、除染後に帰還できる「避難指示解除準備区域」、帰還に数年かかる「居住制限区域」、帰還まで5年以上かかる「帰還困難区域」を新たに設定している。
 再編の見通しが立っていないのは、富岡、双葉、浪江、川俣の4町。富岡、双葉両町は三つの区域に、川俣町は居住制限区域と避難指示解除準備区域に再編する案が政府から示されている。再編に関する交渉を拒んでいた浪江町は案を提示されていない。
(2012年10月7日12時40分  読売新聞)


ここで問題となっているのは「避難区域」の三つの区域分け。
詳細は以下記事参照。


政府は20日、東京電力福島第一原子力発電所の事故の避難区域にある不動産などについての賠償方針を発表した。

 避難指示区域の区分が4月に見直されたことを受けた措置。東電が来週発表する具体的な賠償基準に反映される。
 帰還まで5年以上かかるとみられる「帰還困難区域」は、事故前の価値の全額を賠償する。「居住制限区域」と「避難指示解除準備区域」については、事故から6年で全損扱いとして、実際に避難指示が解除されるまでの期間に応じ、3年で半額などと賠償額を決めている。
 家財に対する賠償は、家族構成に応じて定額を支払う。夫婦と子ども2人の場合、帰還困難区域では675万円、居住制限区域と避難指示解除準備区域では505万円とした。
(2012年7月20日13時19分  読売新聞)




「町に戻りたい」が大幅減…楢葉町が町民アンケ




 東京電力福島第一原発事故による警戒区域が今年8月に再編された福島県楢葉町が行った町民アンケートで、「町に戻りたい」と考える人が4割弱にとどまり、約1年前の調査時の約7割から大きく減ったことがわかった。
 再編後の8月中旬、16~79歳の町民3022人を無作為で選んでアンケートを郵送し、1609人が回答。昨年8月に全世帯を対象に行った意向調査の結果と比較した。
 「町に帰りたい」と回答したのは19・3%、「できれば帰りたい」は20・1%で計39・4%だった。前回調査では、「できれば帰りたい」の選択肢はなく「町に戻りたい」のみで69・7%。今回は、帰る意向の人が約30ポイント減少したことになる。
 このほか、「現実的に考えると帰るのは難しい」が34・7%、「帰らない・帰りたくない」は13・2%で計47・9%。「わからない」は12・8%だった。
(2012年12月11日19時50分  読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866921/news/20121211-OYT1T01139.htm?from=blist


「原発警戒区域のままがよかった」福島県楢葉町の地元が警戒線解除に反対する5つの理由
まとめると理由は5つ。

1. 誰でも立ち入れるが宿泊は禁止。つまり夜間の町内は無人状態。すでに多くの盗難が発生しているが、さらに盗難が増加し町内の治安は悪化する可能性がある。
2. 反対の声も多い中、町からの説明が不十分なまま解除が決定されたという経緯がある
3. 水、下水、電気などのライフラインがまだ復旧しておらず、病院もスーパーも再開していない
4. 帰りたくない住民への配慮がない
5. 除染がまだ不十分

http://getnews.jp/archives/241213



「拳銃所持で逮捕された楢葉町 復興計画委員会副委員長」が経営する渡辺興業へ行ってみた

IAEAと共同設立。廃炉の国際研究開発機関が福島に。


IAEAと共同設立。廃炉の国際研究開発機関が福島に。
「IAEA緊急時対応能力研修センター」を福島県内に設置することで合意。

・福島県は、住民の健康管理と除染で、協力体制を取る。
 (健康データも管理対象になりうるのかもしれない。)
・アジア太平洋に原発事故の知見を活かすという目的。
 (どういう枠組みをもって、どのような成果が達成されるのか注意深く見守りたい。)


原発事故:福島に廃炉の国際拠点 政府が正式表明
毎日新聞 2012年12月15日 21時44分(最終更新 12月15日 23時45分)
東京電力福島第1原発事故に関連し、政府は15日、福島県内に原発の安全な廃炉を進めるための国際的な研究開発拠点を整備する方針を正式表明した。政府と国際原子力機関(IAEA)が共催で同日、同県郡山市で開いた「原子力安全に関する福島閣僚会議」で経済産業省が示した。IAEAの天野之弥事務局長は毎日新聞の取材に「どういう協力ができるか考えたい」と拠点整備への協力を表明した。IAEAは福島第1原発の廃炉作業に助言するアドバイザリーチームを早期に結成、日本に専門家を派遣する方針も示した。

 一方、福島県は同日、IAEAとの間で原発事故で放出された放射性物質の除染や住民の健康管理で協力することで合意。IAEAは今後、専門家を福島に派遣し、除染のほか、放射性廃棄物の保管や処理などを支援するほか、放射線災害医療の作業グループを設置するなど県民の健康管理面でも協力を進める。天野事務局長は「IAEAは除染や健康分野に知見があり、福島に役立ちたい」と説明。同県の佐藤雄平知事は「大変心強い」と述べた。
 また、政府とIAEAはアジア太平洋地域での原子力事故に備えた「IAEA緊急時対応能力研修センター」を福島県内に設置することでも合意した。
 今回の閣僚会議は原発事故の教訓や情報を国際社会と共有することを目指し日本が提唱したもので、125カ国・機関が参加。17日までの日程で各国の原子力規制当局者らが原発事故の防止や過酷事故対策などを話し合う。15日の本会合では、原発をめぐる情報の透明性強化や、原発の新規導入国の安全性確保に向けて、各国が支援を強化する方針などを盛り込んだ共同議長声明を採択した。
 日本からは玄葉光一郎外相らが出席。経産省は「福島県に(廃炉などの)国際研究開発拠点を整備し、(日本が原子力対策で)主導的な役割を果たす」(佐々木伸彦経済産業審議官)と表明した。【和田憲二】

2012/12/03

環境社会学会/「フクシマ」論と「コミュニティ復興」論を超えて


第46回環境社会学会大会に出席してきました。

立教大関礼子さんの発表『「フクシマ」論と「コミュニティ復興」論を超えて。「生成する復興」論への試論』が大変、興味深い。
福島原発事故を「フクシマ」として表象化する議論の有効性と陥穽。外部へ向けて表象化された「フクシマ」は、国際社会に訴える、国の施策を担保させるなどのメリットの反面、原発事故の影響を福島県内に押し込める役割を果たし、結果、県外者に自分とは関係ないと思わせる言説として機能する。それは、福島県内の多様な矛盾を引き受けるのでなく、意識的、無意識的に捨象させる。
楢葉町の住民意識調査結果で、計画区域解除がなされたにもかかわらず「帰町したい」と考える住民が一年前の調査に比べて70%から37%へ減少。コミュニティの復興、「戻りたい」という言説より、コミュニティを「離れる」言説、分散していく中でゆるやかにつながりを保つような言説のほうが現実に沿った優しい復興なのでないかという指摘。それは沖縄出身者の全国の「共有会」のようなモデルなのではないか。鋭い指摘だと思う。

環境社会学会第46回大会プログラム:
http://www.jaes.jp/seminar_a/2012/2663

2012/11/20

ハビタ・ランドスケープ005:「緑の島」の地質学的時間とヒトの時間。


狭山丘陵・東京/埼玉
「緑の島」の地質学的時間とヒトの時間。 

東京都と埼玉県にまたがる狭山丘陵。周囲の市街地より数十メートル高くなった地形は樹林に覆われた「緑の島」となっている。
古代より続く谷戸の集落と里山、都民の水瓶である多摩湖。丘陵での人の営みと地質学的な時間の接点を追う、ジオ・トリップ第5弾。




■谷戸の集落と里山

青梅街道を西に向かっている。場所は東京都西部の多摩地域、武蔵村山市あたりだ。このあたりには豪農と言える大きな農家が並び、その奥には一筋の樹林のスカイラインが続いている。狭山丘陵である。この丘陵は南北4km、東西11kmに渡り、東京都と埼玉県の境に位置し、周囲の台地から40mほど標高が高く樹林に覆われている。航空写真で見ると、東京の市街地に浮かぶ緑の島のようだ。村山織物産地組合の洋館あたりで車を停め、丘陵へ向かう集落の道に入った。豆腐屋さん、神社の祠、ガボチャが売られている農家の庭先が現れ、いつの間にか時間が止まった里の風景の中に入りこんだようだ。しばらく歩き、須賀神社の脇を抜けるとススキ原が広がり、奥に一家の茅葺きの民家があり煙を揺らせている。この建物は移築した農家で、現在は都立野山北・六道山公園の拠点施設として使われている。この公園で、レンジャーとして市民ボランティアと共に里山の管理運営を行なっているNPO birthの丹星河さんに谷戸の田んぼを案内いただいた。


樹林は色づき始めており、都心より二週間ほど季節が先に進んでいるようだった。谷戸は幅20mほどで、斜面脇に小さな流れがある。それに沿ったあぜ道を谷戸の奥へと進んでいく。ミズヒキ、ハナタビ、ノコンギクなど、秋の野草が開花真っ盛りだ。道連れの環境コンサルタントの梶並さんは、今回は愛犬のダックスフンド・チョコを連れてきた。チョコは草叢に入るとすぐ種だらけになってしまう。動物の毛で種散布する草が多いのだ。黄金の稲穂の波が目の前に広がった。頭を垂れており刈り入れはもう直ぐだろう。両際を囲われた小さな谷津田は、落ち着くものがある。平野での大規模な水田に比べ、谷戸の田では、自ずと地形ひとつに与えられる人口収容量が決まっていた。それは小さな集落単位のささやかなものだ。人の顔が見える関係性の中で営まれてきたスケール感が心地よさを与えるのだろう。このあたりは旧石器時代から人が定住していたことが分かっている。
(中略)




■地底を切り裂く神

谷戸を後にして、丘陵の西、先っぽへと向かう。狭山丘陵は西にいくほど標高が高くなり、そのエッジは上空から見ると、三角の矢尻のようになっている。ここに狭山神社がある。鳥居をくぐり、かなり急な参道の階段を登り切ると社殿がある。御祭神は伊邪那岐、伊邪那美に加え、木花咲耶姫命、大山祇命と山の神が並ぶ。そして、古代からここには泉津事解之男(ヨモツコトサカノヲ)が祀られている。この神はヨモツ=黄泉国つまり地底の死者の国から、コトサク=物事を裂く、隔てるという意味があるのだが、その名は、地形的に大変興味深い。
狭山丘陵は三つの地層から成り立っている。下から上総層群、芋窪礫層、関東ローム層だ。最も古層の上総層群は150万年前ほどに関東平野一面が海だった時代に、海底に堆積した地層で、丘陵の崖からは魚や貝の化石が見つかっている。その上に奥多摩から運ばれてきた礫の芋窪礫層、そしてごく最近(といっても6万年ほど前だが)、火山灰が降り積もったのが関東ローム層だ。狭山丘陵は武蔵野台地の上にぽつんと孤立しているが、もともとは多摩丘陵などと一帯の広大な平面だった。それを削りとったのは多摩川だ。実は古多摩川は現在と異なり、かつては北東の埼玉方面へ流れていた。その浸食で狭山丘陵北部が削り取られた。その後、多摩川は流路を南東に変える。
なぜ流れが変わったのか?その謎を解くのが立川断層の存在だ。立川断層は関東山地の縁に発し、立川、府中へと、北西から南東へ斜めに伸びている。この断層は北東側の地盤を跳ね上がらせる逆断層だ。その隆起により古多摩川の北東流路が遮られ、南東へと流れを変えたのだ。狭山丘陵はこの流路変遷の境目に位置し、隆起した断層面がフェイスガードとなり、多摩川に削られずに残ったのである。黄泉の地底から大地を裂くヨモツコトサカノオ神…。狭山神社に祀られている神々の名は、まるでこの壮大な地質学的一大ドラマを記録しているかのようではないか。ちょうど、この神社の丘の直下には、立川断層が走っている。

神社の本殿、庇の下には雲の上を飛ぶ鳳凰のレリーフが彫られていた。境内脇からは青梅、福生の市街地が見下ろせ、奥には奥多摩の山並みがある。パラグライダーで飛び出せそうな丘陵の先っぽ。古代の人も飛び立つような感覚を持ったのだろうか。戦前、ゼロ戦を開発した中島飛行機のテスト飛行場がすぐ下にあり、現在では横田基地として毎日米軍機が飛び立っている。


photo:渋谷健太郎

続きはソトコト12月号で。


2012/10/27

ハビタ・ランドスケープ004「江戸の水郷景観の現在。絶滅危惧種とセシウム。」


ソトコト連載「ハビタ・ランドスケープ第四回」
東京・水元公園〜江戸川
江戸の水郷景観の現在。絶滅危惧種とセシウム。

photo:渋谷健太郎


■水元公園とオニバス

抜けるように青い空がどこまでも広がる8月の朝。私とフォトグラファー渋谷さんが乗ったブルーバードは首都高を降り、JR常磐線の金町駅でランドスケープ・アーキテクトの板垣さんをピックアップした。
都立水元公園は金町から車で10分、葛飾区の東端にある。81.7万平方メートルという広大な敷地はちょうど逆S字の「小合溜」という水辺に沿った形で横たわっている。もともとこのあたり一帯は古利根川が流れ、氾濫原として湿地帯が広がる場所だった。徳川家康が江戸城へ入った江戸時代初期、利根川は東京湾に直接注いでおり、江戸はたびたび洪水に晒されていた。この流れを上野武蔵の国境から東流させ、現在のように河口を銚子へと付け替える利根川東遷事業が行われた。この一大治水事業は実に百年の歳月をかけて行われた。その後、取り残された古利根川沿いに堤を築き、閉鎖水域としたのが小合溜だ。堤を固めるため桜が植えられ、現在でも桜土手として春を楽しませてくれる。
そのような歴史を持つ「ウエットランド」としての水元公園にはハンノキやヤナギなど水辺を好む樹林、花菖蒲などの湿生植物、そしてアサザやオオモノサシトンボといった絶滅危惧種たちが棲む、都内で有数の生物多様性が豊かな場所として知られている。
車を降りた我々は照りつける太陽の元、東の縁にある権八池に向かった。この池には湧水があり、アサザの都内の唯一の生息地になっている。アサザは黄色い可憐な花を一面に咲かせており、ふと目を遣ると黒いランジェリーのような大きな羽根を持つチョウトンボが優雅に舞っている。「だいぶアサザが増えたようだ」と板垣さんが言う。板垣さんはランドスケープ設計事務所で、この池を始め水元公園の多くの水辺再生計画に関わった経歴を持つ。アサザは準絶滅危惧種であるが、生息に適した場所があると、比較的増えやすい水生植物だ。かつてはどこでもあった溜池などの水辺環境が首都圏で激減したことが、その減少の理由であるということだ。この日、我々がこの地を訪れた大きな目的は、これまた絶滅危惧種であるオニバスの開花を見ることだった。その生息地である水産試験場跡地に向かった。水元公園はとにかく広い。端から端まで歩くと二時間はかかるのではないだろうか。しかし、夏の水辺の生き物の気配に満ちており、アオサギが舞い、茶色のジャコウアゲハがハス沿いの道を誘うように我々の目の前を横切っていった。
水産試験場は戦後食糧難の時代にコイ、フナの養殖の研究や金魚の品種改良を目的に設立された。1997年にその役割を終え、小合溜と一体化した水辺の生き物の観察フィールドとして再生された。現在ではコンクリート護岸が撤去され、様々な形の池がゆるやかに繋がった水郷景観が広がっている。板垣さんは「来るたびにだんだん自然らしい景観になってきているのが嬉しい」と目を細める。この一角には金魚展示場が残っており、現在でも江戸前金魚と呼ばれる江戸茜、江戸錦など千匹の金魚が飼育されている。鳥よけの金網で覆われたコンクリート舛の中に、豪華な装いの金魚たちが思い思いに泳いでいる。水の入れ替え作業をしているおじさんに声を掛けた。
「こんにちは、すごい金魚ですね。やはり水がいいのですか」
「そうでもなくてね、ここらの井戸水は硬質で、金魚の墨色を増やしてしまうんだ。江戸錦なんて黒が多すぎると駄目だからね。昔は江戸川の水を引き入れたりしてたんだ」「そうなんですね」
「今はほとんどの金魚屋は埼玉の加須あたりに移ってね、利根川の水を使っているんだよ」
金魚の色にとってベストな水を求め産地を移す金魚業界。興味深い話だった。

photo:渋谷健太郎



さて、オニバスに話を戻そう。オニバスは午前中早く開花するのだが、天候によっては咲かない日もあり、行ってみないと分からないところがある。少し祈るような気持ちで、一堂、生息地の池の前に立った。見事に、それは咲いていた。頑丈な大きなトゲにびっしりと覆われた鎧のような萼。その中から、紫色の炎が燃え上がるように花弁が突き出している。まるで古代に滅びた爬虫類が大きな口を開いたかのような様相だ。直径1mを超える浮葉は山脈のように固く皺打ち、触るとトゲが痛い。これが水田に這えてくると農家の人にとって、とても厄介な存在だったということがよく分かる。オニバスはアジア原産で、第三紀鮮新世(約500万年前〜約258万年前)にはヨーロッパ・アジアに広く分布したが、度重なる氷河期の到来と共に、その仲間は絶滅し、現在では世界中でこのオニバス一属一種だけが生き残っている。一年草だが、種子は地中で数十年も生き、環境のセッティングが整うと発芽するのだという。我が種を守ろうとする強靭な意思と野生の本能を、真夏の太陽の下で放っていた。

photo:渋谷健太郎



続きはソトコト11月号にて
http://www.sotokoto.net/jp/latest/?ym=201211


2012/09/23

ハビタランドスケープ第三回「生物多様性フラクタル都市・京都 」



「ソトコト」10月号にて、連載ハビタランドスケープ第三回、掲載中です。

生物多様性フラクタル都市・京都
東山・京都

絶滅危惧種のタナゴが生き延び、ホタルが舞う京都。実は明治期に土木インフラとして建設された疎水が、その生息環境を育むのに一役買っていた。自然を身近に引き寄せる「縮景」が時代を超えて生き続ける都市のデザイン原理とは?ジオトリップ第3弾。


平安神宮に生き延びるタナゴ

隅々まで白砂が敷き詰められた境内は、朱色の円柱が立ち並ぶ神門と本殿に囲まれ、修学旅行生や外国人旅行者が行き交う。ここ平安神宮はおよそ120年前に創建されたのだが、整然とした建築群をぐるりと取り囲む形で「神苑」と呼ばれる池泉回遊式庭園が広がっている。その大きさは約一万坪程もあり、神苑への入口をくぐり、少しくぼんだ地形を下ると、瀬がある。苔むした岩岸と白い砂の底のあいだを澄んだ水がさらさらと流れていく。水の中を素早く動く魚影がある。タナゴだ。ここ神苑には、絶滅危惧種に指定されているイチモンジタナゴが生息している。神苑の池や瀬には疎水から水が引かれている。この疎水は平安神宮建造と同じく明治20年代に琵琶湖から引かれたものだ。疎水の流れに乗って、琵琶湖の魚や生き物たちもたくさんここに流れ着いた。その後、琵琶湖の水質が悪化するに伴い、イチモンジタナゴなどの多くのタナゴ類は琵琶湖では姿を消し、絶滅危惧種となった。ところがどっこい、ここ平安神宮で生き延びていたというわけだ。
神官さんの話によると疎水から流入するアオコを防ぐために数十年前に防護ネットを取水口に張った。ちょうどその頃、琵琶湖ではブルーギル等の侵略性外来種が猛威を振るい出したが、ネットによって侵入が拒まれ、獲物であるタナゴたちは数多くある京都の庭泉の中で、唯一生き延びることができたということだ。まさに神計らいと言う他ない。イチモンジタナゴが生息するためには、卵を産み付けるためのドブガイ、さらにドブガイの幼生が寄生して育つためのヨシノボリという小魚など、様々な生き物がセットで生きている必要がある。ここは、かつての琵琶湖の生態系のレフュージ(避難場所)なのである。
瀬の流れに沿って進むと、樹林に囲まれた密かやな池に出る。自然石によって入り組んだ岸、こんもりと松が茂る島、浅瀬に植えられた花菖蒲や、深みに浮かぶ睡蓮などが目に入る。実は、様々な生き物が生き続けることができた理由は、日本庭園のこの形状の複雑さにある。凸凹の石の護岸、浅瀬、深み、流速の早い瀬、まどろむ池など、様々な形状が生み出すそれぞれのニッチな環境に、生き物が棲み分け生きている。日本庭園のデザイン思想として、部分と全体が相似関係にあるという「フラクタル性」が挙げられる。ランドスケープを専門をする森本幸裕京大教授によると、ふつう等高線の形状には10mのオーダーでフラクタル性が見られる。一方、日本庭園では、10cmほどのオーダーでフラクタル形態が出現する(*1)。それは伝統的な言葉で言えば「縮景」ということであり、多様な生き物のハビタットは自然を縮景する「わざ」によって支えられていたのだ。・・・


(*1)参考文献:森本幸裕、夏原由博著『いのちの森生物親和都市の理論と実践』


続きはソトコト10月号にて。

2012/08/05

ソトコト連載・ハビタ・ランドスケープ「台風前の鎌倉、紫陽花と極楽浄土」



異例にも6月に台風が本土に接近しつつある日、梅雨の鎌倉に向かった。谷戸に囲われた寺院には紫陽花が咲き誇り、至る所に死の履歴が刻まれた古都の風景に、刻々と陽と雨と風が入り交わった。ジオトリップ第二弾。




谷戸の寺院・円覚寺

JR東海道線の大船駅から横須賀線に乗り換えると、列車は北鎌倉の駅に入る。この駅のホームは両側を山に囲まれ、すぐ脇の板塀に越しに民家の庭木が生い茂っている。昭和30年代の小津安二郎の映画のワンシーンのような懐かしい風景だ。
駅を降りると、もうそこは円覚寺の境内だ。石段の階段を上がり総門をくぐると平場があり、さらに石段を上がると重厚な山門が構えている。奥には伽藍直線上に配置されている。円覚寺は鎌倉五山の一つである禅宗・臨済宗の名刹だが、谷戸地形まるごとがひとつの社寺空間に占められているという点で、ランドスケープ的には貴重な空間である。入口部分の谷底部を造成する形でステップ状の平場空間が作られ

伽藍から奥に一本、主導線が延び、道脇には石で組まれた水路があり、流水性のヤンマが飛び交っている。水路壁面にはびっしりとホウレンソウのような大きな葉と色の可憐な花が咲いている。イワタバコだ。ウエットな岩場を好む植物で、一見地味だが梅雨の鎌倉を盛り立ててくれる存在だ。水路の石組みの上は切り崩した岩が地層を露わにしており、ヒメイタビのような小さなツル植物に覆われ、緑のオブジェのようだ。その一部には横穴が穿たれ、仏像が安置されている。庭師がツルの上に伸びた草本を丹念に刈っている。
同行した生物調査、環境計画の専門家、梶並さんが「刈り取らないと明るい場所が好きな様々な植物が繁茂してしまい、岩の形が見えなくなってしまう」と言う。自然のままの地形、手を入れた地形、もともと生えている植生、人が管理して維持した植栽が渾然一体となり、いい感じだと思えるハビタ・ランドスケープが成り立っているようだ。


方丈庭園を越えたあたりから勾配が急になり、道の斜面には満開の紫陽花が咲き誇っている。着飾った女性たちやカップルが行き交う姿が、人の背丈より高い紫陽花たちとよく似合う。
急な坂を登り切り、また門をくぐり抜けると、そこには庭園が広がっており、小さな塔頭が立ち並ぶエリアに出る。ここは下の伽藍が立ち並ぶ荘厳なエリアと比べると、もっとパーソナルな空気感が漂っている。タマアジサイやユキノシタ、蓮の花に萩など、季節それぞれに花を咲かせる植物が細やかに植えられている。「ナウシカ」の村のような雰囲気だ。
この谷戸庭園の最奥には祠があり、聖観世音が祀られている。ここだけは寺というより、神社のような趣。谷戸の奥の水が湧き出す場所には、水神や稲荷様、御先祖霊などが祀られているのが伝統的な集落構造だが、円覚寺という禅宗の寺院といえども、そのような空間の構造が刻まれているようだった。



円覚寺の山門を抜け、横須賀線のレールを渡ったところに古い緑色に染まった池がある。この池は「白鷺池」といい、円覚寺の境内の一部だ。仏教では殺生を禁じ、一旦捕まった鳥や魚を放す放生会を行うが、ここはそのための放生池だった。白鷺池を後に鎌倉街道を少しゆくと東慶寺ある。

イワタバコと死者・東慶寺

東慶寺は一二八五年、北条時宗の未亡人覚山尼が開山した臨済宗寺院で、明治半ばまでは尼寺だった。女性が人生を決定できない時代、夫の不徳があってどうしても辛い場合、この寺で三年間規則を守って暮らせば、離縁できる「縁切り寺」として長い間、女性たちを受けれ続けた寺だ。
門前の石段の側はガクアジサイつくる青いドットパターン。境内にはタマアジサイ、カシワバアジサイ、ホタルブクロの花々がきらめく。
ここも谷戸の地形の中に囲われるように寺が造られてあり、隠れ里のような雰囲気だ。谷戸の水を集めた中央のハナショウブの湿地が、そのランドスケープ庭園の見せ所となっている。


谷戸の上から湿った風が吹いてくる。ゆるやかな路地を辿って行くと、森の中へと入っていく。突如、目の前に切り立った崖が現れる。壁面一体はワサワサと緑の葉に覆われている。ここにもイワタバコの群落だ。無数の小さな星型の花が風にたなびく。葉のあいだからはゼニゴケが胞子嚢をにょっきり立たせている。崖は何百世代もの植物たちの死骸にコーティングされた結果だろう、指を突き刺すとずぶりと入るほど柔らかいテクスチャーになっている。


ここから奥の森の中には、苔むしたお墓がある。岩盤を矩形に繰り抜いた、鎌倉独特の横穴”やぐら”がいくつかあり、そのひとつは「後醍醐天皇皇女の墓」とある。相当な歴史の蓄積を感じさせる。この墓苑には西田幾太郎、鈴木大拙、小林秀雄など錚々たる人物の永眠の地となっているが、同時に単に”彰子”と書かれた古めかしい墓石が見かけられ、「駆け込み寺」としての尼寺だったことを感じさせる。イワタバコは”やぐら”がある岩肌では、ひときわ大きく成長しており、葉は人の顔ほどの大きさがあった。岩に手を掌わせしばし佇み、東慶寺を後にした。


続きは、ソトコト9月号で。

text:滝澤恭平
photo:渋谷健太郎



2012/05/15

ジオと神話の旅・霧島 その三 ー霧島東神社と祓川ー


5月3日、快晴。午前の爽やかな太陽の元で霧島連山がくっきり見える。
やはり、大きい。車でしばらく走ると、見える姿が刻々と変わっていき、豊かな表情を見せる。































ー霧島東神社へー

昨日ジオガールを撮影した御池は火口に水が貯まってできたので、火口の縁が水面より30メートル程高くなっている。その尾根筋の道を進んでいる。
標高1574mの高千穂峰が湖の向こう側にはっきりと見える。成層火山特有の美しいスカートのシルエットは頂きの少し下まで深い樹林に覆われている。






























この峰の手前から、我々の立つ側に降りてくる尾根線のライン沿いに霧島東神社はある。
その地点の標高は500m程。ここからは御池の円い輪郭を見下ろすことができる。
霧島東神社は康保三年(966)、天台僧・性空上人が開山した6つの神社である霧島六権現のひとつで、明治までは、西御在所宮としての霧島神社に対し、東御在所宮と呼ばれてきた。ここには御祭神として国生みの男女神であるイザナギ、イザナミが祀られている。

神社の入口の鳥居をくぐると、右側の少し奥まったところに小さな祠と湧水「神龍の泉」がある。






























豊かな水量を持って湧き出るその場所は、石が組まれた水場となっており、参拝者たちが手を濯いでる。
湧き水は清らかで飲むとおいしい。
顔を洗い、頭にも水を浴びた。

本殿への道は山の形に沿った階段となっていて、登って行くと境内社と注連縄で四角く区切られ丸石が敷き詰められた場所がある。
さらに上がった場所に大きな杉の木が二本並んでおり、その二つは太い注連縄で結ばれている。
自然そのままの姿で鳥居となっており、参道が奥に続き本殿がある。



























社殿は高千穂峰へと続く山の軸線に対して垂直に建てられ、峰の方向を向いていない。
それが不思議だったが、山側は、杉の中に明るい日差しが差し込む森となっている。
敷地から森が始まる境界に二本のヤブツバキが注連縄で結ばれており、ここが登山道の入り口であるとのことだ。





























森の中は、所々に落葉樹が揺れており、林床には草本類や地衣類が生える。
ここから先は自然の領域だ。そして神がおわします森でもある。
その高千穂峰から続く森に対して、敢えて建物を向けず、二本の木と注連縄だけで結界とし、自然のまま開けているランドスケープの佇まい。
そこに、古の人たちから続く哲学を感じた。
風が吹き抜けていく。
峰から流れる神気を流すということだったのかもしれない。























ー祓川の集落ー

霧島東神社を下って、山が盆地部に出るその裾野に祓川(はらいがわ)の集落はある。
ここは独自の古い神楽が伝わる集落で、村民でもそれがいつ始まったかはわからないという。
少なくとも千年以上前からあるという話だ。
真剣を素手で握りしめながら一晩中朝まで舞う神楽は、12月に行われ、真っ暗な闇の中で
舞を見ていると自分が今いつどこにいるのか分からなくなってくると見学者は言う。

祝日ということで、数十戸ほどある緑に覆われた家の入り口には日の丸が掲げられている。
懐かしいニッポンの農村といった印象だ。
この集落の中にコイの養殖池があり、その池に流れ込む小川は清流で、シダやフキ、水生植物、羽が茶色のカワトンボなど様々な生き物たちが自生する。
水面と草むらがキラキラと輝いている。











































この瀬は、集落の中で最も山裾に近い場所にある湧水地から流れだしている。
飛沫を上げ、沢に下る湧水池点から塩ビ管が伸び、水汲み場へと続いている。
水を汲みに来た地元の女性がいた。この水でご飯を炊くととても美味しいんですよとのこと。





























この水は用水として集落全体に張り巡らされ、さらさらと家の前を下っていく。
用水脇に咲き誇る大きなサツキの木の周りに、二匹のクロアゲハが舞っている。
急に風に乗ったり、花に舞い降り立りたり、動きはランダムで自由だ。

毎年神楽に出向き、映像撮影を行なっているTさんから夢のような話を聞いた。
集落のある家に伺った時、窓を開けて、神様の声が聞こえるかなと言われたという。
窓の外から聞こえるのは、鳥や虫の声だった。
この集落のうち、神楽に参加する家々は霧島東神社の氏子で、その伝統を千年以上にも渡り守っている。
風景のひとつひとつの石、水、植物、虫たちに神が宿っている。
そのような世界観を今なお保っている集落のようだった。






















霧島東神社と氏子としてその文化を守る祓川の集落。
高千穂峰から降り立った尾根の森の途中に神社があり、そこは神と野生の領域と、
人間の領域の境界であり、さらに下り山が盆地に出る勾配変化点に集落はある。
集落は神に使える人たちと農的な営みを持つ人々の境界点と言えようか。
このような視点で見ると、高千穂峰を中心とする同心円状に地形・文化的なフィルターが
幾層にも渡って構成されているようだった。
共通するのは湧水で、水は火山灰の土壌に滲み込み、地形の変化点で湧きいでる。

この水がどこにたどりつくのか、それを追ってみたくなった。





2012/05/10

ジオと神話の旅・霧島 その二 ー御池ー


52日、ジオガール撮影の日。午前九時に都城のホテルを出て最初の撮影地「御池」に向かう。
天候は曇。45号線を北西に向かい、霧島がだんだん近づいてくる。低く垂れこめた雲と畑の間に
青い軀体が広がっている。






























車は山間部に入り、沢沿いに点在する集落のあいだを進む。このあたりの集落は外壁に板を張っている。
どことなく隠れ里的な雰囲気が漂う。






























突然、大粒の雨が降ってきた。一瞬であたりはざあーっと土砂降りのホワイトノイズに包まれる。
運転するフォトグラファーS氏は、撮影ができるかどうか心配している様子。
しばらく車を進めると、どういうことか、雨は弱まり、そして止んだ。
どうやら15分ほどの移動区域だけ、雨は激しく降っていたようだ。フォトグラファーS氏は地元・都城の隣の曽於市出身だが、「このあたりではよくあることなんです。山の麓では場所によって雨が降ったり止んだりしています」と言う。
霧島連山の麓の地形と連動した微気象が多数発生しているということか。なんだかわくわくした。



撮影目的地の御池に着いた。御池は4500年前の火山の水蒸気爆発で出来た火口湖。
爆裂した火口に水が溜りそのまま、円い湖となった。

都城出身の撮影スタッフのヘアメイクのMさんは子供の時よくここにキャンプに来ていたという。
朽ちかけたボート乗り場があってスワンが並んでいる。
四件ほど食堂が並んでいるが永らく使われている様子はないようで、一軒は取り壊し作業が進んでいる。
目の前に広がる風景は素晴らしい。御池が円いカーブを描き、周囲は深い森に覆われている。
森は火口のフリンジ部分に生い茂っており、低くゆるやかな曲線が続いている。
向こう岸の森の縁の奥には、正面左上に伸びる尾根があり、その端は雲の中に消えていく。
この尾根は高千穂岳につながる山脈らしい。霧島連峰から最右翼として都城盆地に突き出している。山腹には霧島東神社があり、これは霧島六社権現のひとつとなっている。



撮影本番の時間が近づいた。天気は快方に向かい、やわらかい太陽が湖に光を落とし、
キラキラと水面が輝いている。高千穂岳もその姿を目前に露した。最高の撮影日和だ。
































天気が回復したせいか、ちらほら釣り人が現れだし、湖面に長い竿を突き出し仕掛けを
設置し始めている。
少しカメラの視界に入ってしまうところに釣り人が陣取ったようだった。
5分だけ待ってもらえないかお願いしてみよう。
私は釣り人のおじさんに近づき、話しかけた。

「こんにちは、いい天気になりましたね。何を釣っているんですか?」
「ニジマスだよ」
「ブラックバスばかりと聞いていたんですが、ニジマスいるんですね」
「ここらに入る川は水が綺麗だから御池も水が綺麗なんだよ」
「へえ、そうなんですね…。ところで、少し撮影をしたいのでちょっとだけ竿を
動かしてもらっても大丈夫でしょうか?」
「いいよ、にいちゃんたちも大変だね」
「いえいえ、本当にすみません」
「おっ!」
「かかりましたか!」
「うん」






























引き上げたのは30センチぐらいのニジマスだった。結構、大きい。

おじさんは地元の方でよく釣りにここに来るらしい。フォトグラファーS氏が話すには、
「向こう岸に見える縁の黒いところ、あそこにここのヌシがいますよ」ということだ。


湖を見渡すと、水面は太陽を反射して白く光るが、一部分黒く伸びる帯がある。
そこは他より深いところで、光が水中の地形に反射し、その深さによって水面の色が白と黒に分かれてゾーンができるらしい。
最深部では93.5mあるとのこと。相当、深い。
どくろを巻くその底知れぬ黒い帯に神秘の念を抱くとと共に、
三角形の台形の姿をうっすらと霧の中に現しはじめた高千穂岳に、
何やら知れぬ奥行きの深さを感じた。































この湖、御池の向こう岸の、高千穂につづく尾根に背骨上にある霧島東神社。
そこに参拝しに参りたいと思った。




2012/05/06

ジオと神話の旅・霧島 その一 ー霧島へー



ゴールデンウィークの最初の連休の三日目、15時の鹿児島行きの飛行機に乗った。
東京から1時間40分の空路。
飛行機が高度を下げ、曇天の層を抜け、鹿児島空港への最終着陸態勢に入ったその時、
窓の外に、黒く広がる大きな山塊が見えた。
手前に鋭い山。幾層もの黒い山筋が連なり、奥の方は白いもやがかかっている。
黒い山の山頂を覆う水蒸気は、雲なのか霧なのか区別付け難く混ざり合っている。
それが、霧島との最初の出会いだった。






























鹿児島空港から高速バスで都城へ。
霧島連山の北側の麓をぐるっと時計回りに西側へ周り、一時間半で都城に着く。
照葉樹林帯に位置する南九州の森はシイやカシが開花期を迎え、竹の新緑が揺れている。
それらはゴールデンパウダーを振りかけたように山々を彩っている。
関東では見られない風景だ。

バスは霧島連山に近づいたり離れたりするが、上の方は雲に隠れており、
なかなかその全貌のスケールが掴めなない。
連山の裾ののスカートは大きくなだらかに広がっており、ふくよかで豊かな感じがする。
その広がりにまず感動した。



























都城の駅前のホテルにチェックインし、撮影スタッフとのミーティングを宿泊ルームで行う。
今回は”ジオガール”というテーマでネイチャー・ファッションを撮影する。
霧島は火山が地質学的に貴重で、自然・文化遺産として「日本ジオパーク」に認定されている。
霧島ジオのランドスケープと融合したモデルを撮影しようという試みで、
女性像として”クマソの女”という設定についてスタッフと話した。

「クマソ」は古事記、日本書紀に「熊襲」「熊曾」として登場する、南九州の部族。
彼らは天皇を中心とする政権・大和朝廷から見ると日本の先住民族で、
制圧され滅ぼされた古代の部族だ。

この「クマソ」という存在が気になった。
その後、鹿児島を中心とする南九州では「隼人」と呼ばれる部族が歴史に登場し、
そこから出た島津家は、独自の勢力を時の中央政権に常に保ち、
ついには日本を変える原動力となり、明治維新を起こし、現在の日本がある。

そんな歴史と、もうひとつ、古事記に登場する「天孫降臨」の神話がある。
ニニギノミコトが高千穂に降臨したという話だが、霧島連山の中の高千穂岳がその地とされている。
古事記では、ニニギノミコトはアマテラスオオミカミの孫にあたり、その後の天皇家の祖先となる。
高千穂岳の頂上には「天の先鉾」が突き刺さっており、坂本竜馬が引きぬいたエピソードがある。
先史時代に神が天降った場所としては、霧島の火山は神が降りるヒモロギのような形をしており、
リアリティを感じるものがある。

天から降りたった天津神に対して、霧島と高千穂は国土を司る国津神が生きる神域であり、
その地の先住部族の「クマソ」は土地の象徴なのではないかと思った。
天から突き刺さる鉾に対して、受け止める霧島全体の山々のゆったりと広がる裾野は、
まるで皿のようだ。
その大地に生きるクマソの女は神を受け入れるシャーマンのような存在なのだろうか?
そんな話題で夜が更けた。


2012/04/26

環境社会学の視点


環境社会学の鳥越皓之先生にお会いしてきました。

「よりよい自然環境を維持していくためには、市民運動型だけでは力不足で、その環境から利益を得ている人たちがいないといけない」という視点などをいただき、なるほどと思いました。
例えば、湖に対しては漁師、狭山丘陵に対しては茶畑の農家、都市の河川に関しては
周辺住民などが相当します。

これは当たり前の話かもしれませんが、個人的には、環境の設計や計画の仕事に携わった結果、デザインと言うよりは、運営とマネジメントが大事だと思い至るようになったもの、どういうオーガニゼーションでやればそれが上手くいくのかまだ見えていなかったので、大きなヒントを頂いたように思います。

鳥越先生の新著「水と日本人」かなり面白いです。

水源を水神様や先祖をなどと結びつけ信仰の場として捉えてきたのは、特に日本人に特徴的であったりします。また水辺はコミュニティの場としてもクロスする場であったと。日本にまだ残るそのような事例がいろいろ出てきます。


その他の話題としては、自然環境は土地利用の話でもあり、結局は所有権というところに行き当たります。

日本は土地の所有権概念を欧米から輸入し、逆に欧米以上に過激に個人の所有権が強固になっている国ですが、実は、所有権という法律のレイヤー以外で動いてるルールがあると。
所有権は「使用権」と「処分権」に分解されます。
これらの2つに関しては、例えば農村では、カヤを刈る権利は所有者とは別にいつも使っている人にお伺いを立てる必要があったり、農地を譲渡するにも村の合議が必要だったりしています。
このあたりは現場レベルでは法律と異なる、ローカル・コモンズのルールでゆるく運用されてきた歴史が一方では日本にはあり、明治以降のガチガチの私的所有権といわば二本立てで運用されてきたと。

コミュニティ、人という視点から自然環境を見直すと、普段の都市生活のパターンからは見えてこなかったものが見えてきて、とても興味深いと思います。


2012/04/01

過疎地域のインフラ再生の鍵は、分散化とつながりのハイブリッドにある。

浄化槽の検査員にキレイに水を使ってるねと言われて嬉しいというおばあさん。
これまでは水がどこから来るか、下水がどこへいくのか一律に分からない時代だったが、過疎地域では逆に分かる時代が来るかもしれない。

 (photo: motoko「田園ドリーム」)

冒頭文章はNHKで老朽化する日本のインフラ再生に関する番組「インフラ危機を乗り越えろ」のワンシーンを見ての感想です。
人口縮小時代を見据えて広がったインフラを効率的に運営していくために、コンパクトシティが推進されるようになっていますが、過疎地域では、土地と住民の結びつきが強いため、特にお年寄りの方は集約化のための移転にはなかなか応じようとしない現状があります。
コンパクトシティの方向性はいいとしても、都心部に居住地とインフラを集約していくことが可能なのは、ある程度の居住人口が集中している中小都市でないと難しいのではないかと思います。
ここらへんはいずれ、居住人口、人口拡散率などからコンパクトシティに適したサイズの基準などが、出てくるのではないでしょうか。
ちなみにLRTを導入して中心市街地の集約に成功したといわれているカールスルーエは人口20万人で、水戸、徳島といった都市と同じクラスです。

で、最も広範囲にインフラが拡散する過疎地域では、水道やガス、道路などのインフラの集約化が難しい。それは、住民が自分たちが住む環境・ジオに愛着を持っているからです。代々の土地を守るという感覚もあるのだと思います。
その中で冒頭のシーンに戻りますが、ある集落で、下水道をやめ、合弁浄化槽に切り替えたところがあり、その生活者の一人として、上記の発言があった訳です。
普通のおばあさんが洗い物をした後に楽しそうに話していました。
僕はここに価値観のパラダイムシフトを感じました。

上水道と下水道が日本の隅々まで行き渡り、水がどこからやってくるか、自分がトイレに流したものがどこに行くかをまったく気にしなくなったのは1970年代あたりでしょうか。
農村ではその少し前に化学肥料が登場するまでは、排泄物は肥となって畑に還元されたり、圃場整備で用排水路が一筆ごとに分離されるまでは、どこの田から水が流れてくるかはよく分かっていたはずです。
滋賀県・針江の”かばた”など今でも、集落を巡る水路を家の台所に引き込んで洗い物をしたり、炊事をしたりしている場所もあります。これは上下水道インフラ配備以前の原風景と言えそうです。

キレイに水を使ってるねと言われるが嬉しいと答えたおばあさんから、”かばた”まで、共通しているのは、水を使った後に他者の視線があることです。その視線の中に水が巡ることを通して、つながりを想像するQOL(クオリティオブライフ)の満足感がありそうです。

中山間過疎地域でのインフラのあり方は、集約化ではなく、分散化に向かうほうが可能性があるのでないかと思います。一戸一戸や集落で自律できる分散型エネルギー源や、浄化装置などの技術は一通り揃っています。
集水に関しては、水道が普及する以前の、湧水から水を引き込む技術が役立つかもしれません。
都市のように一カ所に集めてコンパクトしていくのではなく、極小単位で分散化していくマイクロインフラ。マイクロインフラが運用レベルでつながって融通し合うイメージです。

それでも、投資という目線で見れば、誰がそのお金を払うのかという現実もあるでしょう。
確かに、現状の中山間地域の収益だけでは厳しいところはあると思います。これに関しては必要なサービスを労働単位に分解して、地域以外の最適な人に分配するというやり方があり得ます。

”WWOOF”という外国人が日本の農村で農作業し、その代わりに寝床を提供するという仕組みがあり、様々な国の人が農作業に訪れています。
日本の自然と一体化したサスティナブルな農村学習プログラムと食文化をアピールしていけば、海外から労働力を提供しに来たいという人も増えるでしょう。

また、エネルギーに関しては、再生可能エネルギーの固定価格買取制度が今年7月より開始されますが、初期投資を回収後、年数%で回っていくマイクロファンドを組めれば、銀行に貯金するよりこちらに回したいという人が現れるでしょう。
ターゲットとしては団塊世代以上の貯蓄が多い世代が狙いめではないでしょうか。老後を農業と地域のつながりの中で暮らす受け入れ体制を作ればさらに魅力が増します。

中山間過疎地域でのインフラ再生の肝は、分散化とつながりのハイブリッドシステムの構築にあると思います。集約化、コンパクト化といった都市における論理とまた違ったロジックが必要なのでしょう。
つながりとは、水がどこから来て、使った水がどこにいくのかを分かる視点です。
ここには最先端テクノロジーだけでは解決できないナレッジが必要で、それは地形を読んだり、地域の自然資源をどのように回していくかといったジオ/地理学的なリテラシーがベースとして活用されていく可能性があるのではないかと考えています。





2012/03/24

セルフメイドカルチャーの街・秋葉原

さて、今日もこれから秋葉原に行く。突如メイド喫茶にはまった訳ではなくて、ノートpcが逝ってしまったので、ハードディスクを救出しにね。
秋葉原にあるデータ復旧サービス屋さんは、新宿や赤坂などのビジネス街のそれより劇的に安いです。僕の場合、40ギガを15000円ほどで復旧できました。しかも、即日で。これを丸の内とかのデータ屋さんにもっていくと下手をすれば十倍は取られます。
”プライシング”って何なのだろうと思います。
秋葉原の裏通りにはパーツ屋さんが並んでおり、中古のモニター23インチ8000円やら、正規品でないMacのアダプターやら、訳の分からないコード類やバッテリーやらが300円とかで、無造作にカゴに投げ入れられています。
僕はモニターも欲しかったのでいろいろ物色していたのですが、MacBookからモニターにどうやって繋げるかなんて、全然分かってなかった。DVI変換アダプターが必要で、DVIにはデジタル/アナログがあるがデジタルで、メーカーによっては繋がらんモニターもある、なんてことを店員に聞いたり、スマホで調べたりして、ああこれは買えるなとか、これ買ったらヤバイんじゃないかとか分かってくる訳です。
つまり、秋葉原のプライシングは完全に自己責任性で、店員もそのことを前提に対応して来るから、そっけなかったりするんですね。でも、それが嫌な人は量販店に行って大量流通価格の製品を買うしかない。
その代わり、秋葉原は個人一人ひとりの欲望に対応した活気に満ちてますよ。完全カスタムメイドカルチャー。オタクもメイド喫茶もそういう文脈で同居しています。OL喫茶なんてものもあって、おっ!と思ったり。
あとハンバーガー屋さんやらラーメン屋、定食屋、その他諸々やたら旨そうな食い物屋も多いですね。
個人の欲望を最大限肯定して、それをみんなで維持してきた空間。売り手も客もお互い持ちつ持たれつで、共通点は専門性。
こういうのを正しく「カルチャー」というんだなと感じました。
これが外国人にウケる訳です。単に電化製品とオタクがいるからではない。そういう層の厚さをどこかで感じてるんでしょうね。そのへんでアキバは京都と似てます。
という訳で、今日もあの空気を探りに出かけます。