2012/12/28

火山が生み出した高原都市


ハビタランドスケープ006 (雑誌ソトコトにて連載中)

軽井沢・長野県 
火山が生み出した高原都市

明治より避暑地として賑わう軽井沢は、噴火と崩壊を繰り返した浅間山が、長い時間をかけて生み出した高原上に成立した都市だった。
観光名所に露出する地層、山荘に滞在した文士が残した文学、神社に伝わる神話。火山の痕跡を嗅ぎ分け、火山と人間の関係をひも解く。



旧軽井沢の建築学生の聖地

軽井沢の紅葉の時期は短い。10月の終わり、現地の別荘に滞在する知人が、今年は木々が色づくのが遅れていると連絡をくれた。それから雨が降り、ぐっと冷え込む夜が幾日か続いた。再び知人に連絡すると、もう紅葉がピークだと言う。予想以上の自然の変化の早さに慌てて取材日を手配した。その日は天気予報では、あいにく曇、所により雨だった。雨が降らない事を祈り、長野新幹線に乗りこみ現地に向かった。
軽井沢駅午前9時。フォトグラファーの渋谷さんと、今回、軽井沢を案内してくれるあかねさんと合流する。あかねさんの実家はこの地に別荘を持っており、子供の頃から軽井沢によく通っていたという方だ。
駅の北側から旧軽井沢へと続く通りにはイロハモミジが植えられており、真っ赤に染まっている。街路樹の赤は周囲の別荘敷地内の赤や黄色、奥に座する愛宕山の燃えるような色と交じり合って、街全体が色づいている。
つるや旅館を過ぎたあたりから、観光地の喧騒が静まり、一段と美しい紅葉の疎林の中にぽつぽつと建物が立ち並ぶようになる。小さな黒塗りの教会がその一角にある。ここは軽井沢の冷涼な気候を気に入り避暑地として世に知らしめた、カナダ人の英国聖公会司祭A.C.ショーが明治26年に開いた礼拝堂だ。切妻のシンプルな建築は見事にランドスケープと融合している。その先の、小川に沿った道を三人、ぶらぶらと歩く。空気がおいしい。落ち葉や菌類のオーガニックな匂いがする。煙草なんてとても吸う気にならない。小川は不規則な石によって擁壁が組まれており、その上に大きく育ったモミやカラマツの土手によって固められている。近自然工法と、土木を知る者なら呼びたくなる護岸だが、おそらく明治中期に造られたであろうその構造物は、年月を経て自然そのものと見分けがつかなくなっている。
そんな小路をしばらく進むと、その日、最も訪れたかった場所の一つである、ある別荘にたどり着く。建築学科を卒業した者なら誰でも知っている別荘建築の名作、吉村順三の軽井沢の山荘だ。緩やかなスロープを上がりながら期待と緊張が高まる。私も建築学生だった時にこの模型を作った経験があったのだった。対面した瞬間、想像以上に素晴らしいと感じた。一辺7.2mの正方形の木の箱に片流れの屋根、それがぎゅっと首を絞った一階のコンクリート基壇の上に乗っている。コンクリートの片持ち梁のスラブは力強く張り出し、二階の箱を支えている。その下の空間はバルコニーとなっており、ざらっとした手作りの木机とベンチが置かれている。公式な見解では、軽井沢の冬は寒いため、一階は完全にユーティリティ空間としてボイラーを入れ、コンクリートへの蓄熱で二階を暖めるという設計意図が語られている。周囲の環境は背が高い木々が茂り、地形は沢へとなだからに下っていく。二階から眺めれば樹幹に浮かぶように見えるだろう。地続きの自然を一旦コンクリートで切り離し、二階の居間から再び自然との関係を取り結ぶ。そのような意思を、堅固でありながら軽やかに突き出たコンクリートスラブから感じた。



白糸の滝から軽井沢の成り立ちを読み解く

旧軽井沢ロータリーに戻り、ぐるっとターンするとカラマツの並木が真っ直ぐにどこまでも続いている。
黄色に染まったカラマツを挟んで左右の対向車線に高低差がある。高くなった路面にはかつて草軽電気鉄道が走っていた。この鉄道は大正期の1914年に開通し、嬬恋を通り草津温泉まで55.5kmの路線を繋いでいた。その様子は『カルメン故郷に帰る』という1951年の日本初のカラー映画(監督:木下惠介)に収められており、かつての風景を知る上でも一見の価値がある。カラマツ並木は旧三笠ホテルで終わり、ここから先はぐっと山の中に入る白糸ハイランドウエイを走ることになる。この季節にここをドライブする者には、極上の景観が約束されている。取材の女神が微笑んでくれたのだろうか、雲間からお陽さまが照り始めた。山全体が微細な色に塗り分けられた紅葉の風景の中に渓流が流れている。軽井沢町を縦断する湯川の源流であり、次の目的地である白糸の滝に通じている。


白糸の滝は自然を鑑賞する軽井沢の観光スポットの中では、最も人気のある名所かもしれない。高さ3mほどの瀑布ががぐるっと弧を描いて70mに渡って展開されている。白糸という名前に確かに納得感のある、幾条もの水が滴り落ちており、じっと見ているとスローモーション映像のように水の粒ひとつひとつが煌めきながら糸のように編まれていく。水が湧き出す部分をよく観察するとある特徴に気づいた。苔むした岩盤の上に一枚の白い地層ラインが水平に続いており、すべての水はその上から湧き出しているのだ。実はこの地層の上下では地質学的な違いがあり、それを理解することが軽井沢の土地の成り立ちを知るキーとなる。
白いラインの下の地層は、浅間火山の前身である黒斑山火山の山体が崩れ、押し流れたかつての火山の残骸なのだ。軽井沢市街から浅間山を見ると、ふたつのピークがあり、右が浅間山火口、左が黒斑山だ。地図上では黒斑山は東側に開いた馬蹄形をしており、これはかつての火口の輪郭の一部で、東側が崩れ去った。その崩壊が起こったのは2万4300年前のことだった。高速で流れ下った土石は白糸の滝付近の山塊にぶつかり、南北に分かれてさらに流れた。北に流れたものは吾妻川の渓谷を下り、利根川に合流し関東平野に溢れ出た。前橋市、高崎市には厚さ10mほどこの堆積物が台地として広がっている。南に流れたものは南軽井沢で流れを南西に変え、佐久平の千曲川付近まで達した。相当な空間スケールに渡り影響を与えたボリュームの土砂が一気に流れ下った巨大災害であった(*2)。この「塚原土石なだれ」と呼ばれる土石が軽井沢の基層といえる地質だが、その上に度々起こった火砕流や土石なだれがパッチワーク状に積み重なることによって、現在のなだらかな軽井沢高原の地形が造られていった。では、白糸の滝のもう一つの地層、土石の上の地層は何か?この地層は軽石で、2万年前に小浅間山が噴火した際に積った。土石層との間にある白いラインは、平坦な土石なだれの上に湖が形成された時代があり、その湖底に積もった粘土層だ。粘土は水を通さないが、上の軽石は水を通す。それゆえ、浅間山に滲み込んだ豊かな伏流水は、この地層の境界から湧き出ている。
白糸の滝の謎解きはこれで終った。イラストの”浅間山の噴火地質図”も見て頂ければイメージを掴みやすいと思う。


続きはソトコト1月号にて
http://www.sotokoto.net/jp/latest/?ym=201301

photo by 渋谷健一郎

2012/12/16

避難指示区域問題



避難区域の不動産賠償額の基準に地元自治体の反発。
三つの基準が存在。

東京電力福島第一原発事故による避難指示区域の再編で、政府がメドとした4月から半年以上過ぎても、福島県の対象11市町村のうち再編されたのは5市町村にとどまっている。
 残る6町村のうち4町は見通しも立っていない。難航する背景には、国が示した不動産賠償の基準に、自治体側が反発していることがある。
 再編は、事故発生から間もない昨年4月に設定された警戒区域と計画的避難区域が対象。放射線量に応じて段階的に住民の帰還を促すため、除染後に帰還できる「避難指示解除準備区域」、帰還に数年かかる「居住制限区域」、帰還まで5年以上かかる「帰還困難区域」を新たに設定している。
 再編の見通しが立っていないのは、富岡、双葉、浪江、川俣の4町。富岡、双葉両町は三つの区域に、川俣町は居住制限区域と避難指示解除準備区域に再編する案が政府から示されている。再編に関する交渉を拒んでいた浪江町は案を提示されていない。
(2012年10月7日12時40分  読売新聞)


ここで問題となっているのは「避難区域」の三つの区域分け。
詳細は以下記事参照。


政府は20日、東京電力福島第一原子力発電所の事故の避難区域にある不動産などについての賠償方針を発表した。

 避難指示区域の区分が4月に見直されたことを受けた措置。東電が来週発表する具体的な賠償基準に反映される。
 帰還まで5年以上かかるとみられる「帰還困難区域」は、事故前の価値の全額を賠償する。「居住制限区域」と「避難指示解除準備区域」については、事故から6年で全損扱いとして、実際に避難指示が解除されるまでの期間に応じ、3年で半額などと賠償額を決めている。
 家財に対する賠償は、家族構成に応じて定額を支払う。夫婦と子ども2人の場合、帰還困難区域では675万円、居住制限区域と避難指示解除準備区域では505万円とした。
(2012年7月20日13時19分  読売新聞)




「町に戻りたい」が大幅減…楢葉町が町民アンケ




 東京電力福島第一原発事故による警戒区域が今年8月に再編された福島県楢葉町が行った町民アンケートで、「町に戻りたい」と考える人が4割弱にとどまり、約1年前の調査時の約7割から大きく減ったことがわかった。
 再編後の8月中旬、16~79歳の町民3022人を無作為で選んでアンケートを郵送し、1609人が回答。昨年8月に全世帯を対象に行った意向調査の結果と比較した。
 「町に帰りたい」と回答したのは19・3%、「できれば帰りたい」は20・1%で計39・4%だった。前回調査では、「できれば帰りたい」の選択肢はなく「町に戻りたい」のみで69・7%。今回は、帰る意向の人が約30ポイント減少したことになる。
 このほか、「現実的に考えると帰るのは難しい」が34・7%、「帰らない・帰りたくない」は13・2%で計47・9%。「わからない」は12・8%だった。
(2012年12月11日19時50分  読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866921/news/20121211-OYT1T01139.htm?from=blist


「原発警戒区域のままがよかった」福島県楢葉町の地元が警戒線解除に反対する5つの理由
まとめると理由は5つ。

1. 誰でも立ち入れるが宿泊は禁止。つまり夜間の町内は無人状態。すでに多くの盗難が発生しているが、さらに盗難が増加し町内の治安は悪化する可能性がある。
2. 反対の声も多い中、町からの説明が不十分なまま解除が決定されたという経緯がある
3. 水、下水、電気などのライフラインがまだ復旧しておらず、病院もスーパーも再開していない
4. 帰りたくない住民への配慮がない
5. 除染がまだ不十分

http://getnews.jp/archives/241213



「拳銃所持で逮捕された楢葉町 復興計画委員会副委員長」が経営する渡辺興業へ行ってみた

IAEAと共同設立。廃炉の国際研究開発機関が福島に。


IAEAと共同設立。廃炉の国際研究開発機関が福島に。
「IAEA緊急時対応能力研修センター」を福島県内に設置することで合意。

・福島県は、住民の健康管理と除染で、協力体制を取る。
 (健康データも管理対象になりうるのかもしれない。)
・アジア太平洋に原発事故の知見を活かすという目的。
 (どういう枠組みをもって、どのような成果が達成されるのか注意深く見守りたい。)


原発事故:福島に廃炉の国際拠点 政府が正式表明
毎日新聞 2012年12月15日 21時44分(最終更新 12月15日 23時45分)
東京電力福島第1原発事故に関連し、政府は15日、福島県内に原発の安全な廃炉を進めるための国際的な研究開発拠点を整備する方針を正式表明した。政府と国際原子力機関(IAEA)が共催で同日、同県郡山市で開いた「原子力安全に関する福島閣僚会議」で経済産業省が示した。IAEAの天野之弥事務局長は毎日新聞の取材に「どういう協力ができるか考えたい」と拠点整備への協力を表明した。IAEAは福島第1原発の廃炉作業に助言するアドバイザリーチームを早期に結成、日本に専門家を派遣する方針も示した。

 一方、福島県は同日、IAEAとの間で原発事故で放出された放射性物質の除染や住民の健康管理で協力することで合意。IAEAは今後、専門家を福島に派遣し、除染のほか、放射性廃棄物の保管や処理などを支援するほか、放射線災害医療の作業グループを設置するなど県民の健康管理面でも協力を進める。天野事務局長は「IAEAは除染や健康分野に知見があり、福島に役立ちたい」と説明。同県の佐藤雄平知事は「大変心強い」と述べた。
 また、政府とIAEAはアジア太平洋地域での原子力事故に備えた「IAEA緊急時対応能力研修センター」を福島県内に設置することでも合意した。
 今回の閣僚会議は原発事故の教訓や情報を国際社会と共有することを目指し日本が提唱したもので、125カ国・機関が参加。17日までの日程で各国の原子力規制当局者らが原発事故の防止や過酷事故対策などを話し合う。15日の本会合では、原発をめぐる情報の透明性強化や、原発の新規導入国の安全性確保に向けて、各国が支援を強化する方針などを盛り込んだ共同議長声明を採択した。
 日本からは玄葉光一郎外相らが出席。経産省は「福島県に(廃炉などの)国際研究開発拠点を整備し、(日本が原子力対策で)主導的な役割を果たす」(佐々木伸彦経済産業審議官)と表明した。【和田憲二】

2012/12/03

環境社会学会/「フクシマ」論と「コミュニティ復興」論を超えて


第46回環境社会学会大会に出席してきました。

立教大関礼子さんの発表『「フクシマ」論と「コミュニティ復興」論を超えて。「生成する復興」論への試論』が大変、興味深い。
福島原発事故を「フクシマ」として表象化する議論の有効性と陥穽。外部へ向けて表象化された「フクシマ」は、国際社会に訴える、国の施策を担保させるなどのメリットの反面、原発事故の影響を福島県内に押し込める役割を果たし、結果、県外者に自分とは関係ないと思わせる言説として機能する。それは、福島県内の多様な矛盾を引き受けるのでなく、意識的、無意識的に捨象させる。
楢葉町の住民意識調査結果で、計画区域解除がなされたにもかかわらず「帰町したい」と考える住民が一年前の調査に比べて70%から37%へ減少。コミュニティの復興、「戻りたい」という言説より、コミュニティを「離れる」言説、分散していく中でゆるやかにつながりを保つような言説のほうが現実に沿った優しい復興なのでないかという指摘。それは沖縄出身者の全国の「共有会」のようなモデルなのではないか。鋭い指摘だと思う。

環境社会学会第46回大会プログラム:
http://www.jaes.jp/seminar_a/2012/2663