2013/09/15

夙川、芦屋・兵庫 海と山のあいだのモダン都市。


ハビタランドスケープ #014 雑誌「ソトコト」連載
夙川、芦屋・兵庫
ー海と山のあいだのモダン都市。ー











 
阪神間は海から山まで4キロほどの中に驚くべきほど多様な文化が存在する。
モダンな高級住宅地と一体化したランドスケープを歩く。


夙川をさかのぼる

 艶めくあずき色の車体、ふさふさな苔色の座席に木目調の内装。京都の和菓子を思い起こすクラシックな配色。梅田から阪急電車に乗り込むと、ふるさとに帰ってきた安堵感に包まれた。大阪出身の私は、毎日この電車に乗って大学に通学していた。淀川を渡った阪急神戸線は、十三駅から大きく弧を描きながら西へと進み、武庫川を越えると、前方に山が迫る。ここから先は海と山に囲まれた細長い都市が続く阪神間だ。阪急電車は夙川駅に停車し、私はホームに降り立った。駅の一部は川の上に架けられていて、緑あふれる夙川の流れをホームから眺めることができる。夙川は六甲山から大阪湾までわずか6キロの距離を下る二級河川であるが、大正期から育まれたモダンな住宅街のヒーリングスポットとして、ブティックやスイーツショップが立ち並ぶ街と一体化したお洒落な空気感を漂わせている。さっそく歩いてみよう。
 夙川は白い川だ。川底に白い砂が堆積し、水はその上を撫でるようにさらさらと流れていく。この砂は上流の六甲山系の地質である花崗岩が風化により砕かれ、運ばれてきたものだ。川幅は5mほどでそれほど広くはない。水面すれすれに細い歩道が付けられていて、ずっと歩くことができる。御影石の護岸の上から、桜と松が川に涼しげな影を落としている。川幅に比べてかなり広がりがある土手には、立派な松が立ち並び、所々にベンチや遊具がある。子供を遊ばせる母親、本を読むおじさん、犬を連れた若い女性と、人びとは思い思いの時を過ごしている。川沿いの一帯は緑地公園となっていて、上流から下流まで連続したグリーンベルトが街を横切っている。公園と河川が一体化した緑豊かな夙川だが、最初からそうあったわけではなかった。夙川周辺はもともと松林が広がっていたが、1920年代に住宅の開発圧が強まり、松も伐採され、かつての環境が失われつつあった。良質な住宅地の喪失に危機を覚えた住民たちは、自ら寄付金を出し行政に働きかけ、1932年に公園整備事業が始まった。戦後、松の生い茂る河川敷に千本の桜が植栽され、現在の夙川の原型が誕生した。
 夙川は、長さ6kmで源流から河口まで高低差500mを下るという日本でも有数の急傾斜なのだが、勾配を少しでも解消するために段差を設けている。下から眺めると幾つかの小さな瀬がひな壇のように並んでおり、奥行のある風景だ。どこまでこの川は続いているのだろうか?高校生の時、私の学校から夙川までは一時間半も離れていたにも関わらず、授業をサボりぶらぶらするお気に入りの場所だった。当時も今も、川の上流方向の突き当りに、まあるい帽子のような山、甲山(かぶとやま)が見える。山の中腹まで、住宅がぽつぽつ建っており、いまだ行ったことのない未知の世界への憧れをそそり、誘われるままに白い川をさかのぼってしまうのだった。

 






















 川を歩くと、瀬を渡る飛び石や、暗渠が接続する開口部、阪急電車のガーター橋などと出くわし、都市インフラと河川がどう繋がっているのかを見れることが非常に楽しい。しばらく進むと苦楽園という駅に着いた。この路線は、夙川駅から分岐するわずか三駅だけの短い阪急甲陽線で、1924年に開通した。当初は温泉地であった終点の甲陽園に行楽客を運ぶ路線であったが、次第に進学校である甲陽学院高校など学校も整備され、昭和に入ってから高級住宅地として定着することになる。阪急電鉄は小林一三によって創業された。彼は非常にマーケティング戦略に長けており、終着駅に宝塚歌劇団など行楽地とセットになった住宅地を開発し、一方のターミナル駅に百貨店を建設し輸送客を増やした。鉄道会社が、都市開発をトータルに行う手法のモデルを生み出し、東急や西武など東京の私鉄にその方法は引き継がれている。夙川を始め、芦屋、岡本など高級住宅地が並ぶ阪急沿線には、大正、昭和期に、阪神間モダニズムと言われるモダンカルチャーが花開き、谷崎潤一郎の文学作品などもその空気感の中で生まれている。
 苦楽園のガーター橋を抜けると、河川敷は一気に広がり草地が現れる。このあたりは山から降りてきた急流が平地に出るポイントで、昔から水害も多い場所だ。土木的には、山間部から増水時に土石流が下ってきたとき、受け止めるためのバッファーゾーンとして設計されていると見るべきだろう。急勾配の道を上がると、もうあたりの風景はすっかり渓谷の中に取り込まれている。カワセミの青い姿が水面を横切る。渓谷を上がった住宅街には、どの敷地からも海を望むことができ、眺望は素晴らしい。おばあさんが杖をついて上がってきたが、正直、車がない生活はつらいかもしれない。時刻は正午だ、初夏の太陽が容赦なく照りつける。このあたりで切り上げ、甲陽線に乗り、夙川駅まで戻ることにしよう。













六甲山がもたらしたもの

 阪急夙川駅から南へ、海の方へと下る。JRを越えたあたりから、街は山の手から徐々に庶民的な雰囲気に変わり、阪神電鉄の沿線では阪神間の下町となる。歩いて数十分の距離だが、山から海にかけて沿線ごとに街のノリがまったく違うところが興味深い。灘区から西宮市にかけての海岸部には、「灘五郎」と呼ばれる酒蔵が集まったエリアがあり、「灘の生一本」で江戸時代から名を馳せている。上質の酒米(山田錦)、六甲山から生まれたミネラル豊かな水、そして、「丹波杜氏」といわれる熟練した職人集団の技が特徴だ。日本酒メーカーの「白鹿」の杜氏・小川義明さんにお話を伺った。
  杜氏とはどのような存在なのだろうか?
 「酒造りは集団作業なので、男たちのグループを統率し、様々な役割をうまく指示する棟梁のような存在です。」(小川さん)。
 かつての丹波杜氏は夏は田で米をつくり、冬に酒造りを行う半農半Xのような存在であった。酒造りの基本といえる麹菌は、酒の味を決める酒蔵ごとの秘伝なのだが、昭和初期までは「ええのができたからお前も使えよ」と、杜氏間で共有していた時代があった。また、日本酒づくりには、良質な水は欠かせない。灘五郎では「宮水」と呼ばれる、六甲山からの砂礫層を流れる伏流水を使っている。
 「宮水は酒の発酵をうまく促進するリン酸、カリウムなどの成分が多く、品質を悪くする鉄分、マンガンなどが少ない水です。宮水はピンポイントな井戸場でしか湧きません。その場所は阪神高速の南側の一角にあります。夙川の下層から西宮神社の下を流れてくる「戎伏流」など三つの伏流水が合流し、絶妙なブレンドをなして宮水が出来上がっています。このあたりは縄文時代には海だったので、ちょうどよい塩梅の塩分が混じっていることも水にいい結果を与えています。地質が宮水には非常に重要なのです。」(小川さん)
 阪神高速は、この伏流水の水みちへの影響を減らすために、この部分だけ、橋桁の間隔を大きく取っているという。また、周辺の建設工事も西宮市は厳しい規制を設けており、「宮水」を守るため様々な努力が行政・民間が一体となって行われている。日本の年間日本酒生産の1/5を生産する灘五郎の宮水は、地質学的な偶然がもたらした、海と山の合流地点の恵みによってもたらされているのだ。
 歴史を遡ると、夙川の原型は、たびたび水害をもたらす暴れ川であった。やがて川の扇状地は入り江を埋め立て、平地ができあがり、鎌倉時代に、夙川は西宮神社の西側を流れるように付け替えられ、現在の河道となった。夙川の河口部分はどうなっているのだろうか?埋立地に残骸が残るだけかもしれないが、とにかく向かってみることにする。
 河口付近は両岸をコンクリートで固められている。川が海に開くポイントで、目の前に白い砂浜が広がった。穏やかな波がなぎさに押し寄せている。何も期待していなかっただけに驚いた。ダイサギやシギたちが干潟をつついている。砂地を這うハマヒルガオや、ハマユウが海風に揺れ、貴重な海浜植生が残っている。海の前方には、人工島・芦屋シーサイドタウンのモノリスのような高層マンション、阪神高速湾岸線のアーチ橋が立ち並び、近未来的な風景だ。御前浜と呼ばれるこの浜には、かつて海水浴場があり非常に賑わったが、高度経済成長期に海の汚染が進み、1965年に海水浴場は幕を閉じている。白い砂は夙川の砂と同じものだ。非常に多くの砂が運ばれてきたことが分かる。山は刻々と崩壊し、砂浜の一部に生まれ変わっていた。



続きはソトコト2013年9月号にて
写真:渋谷健太郎