2013/03/31

ハビタ・ランドスケープ009三浦半島


雑誌「ソトコト連載」ハビタ・ランドスケープ009 三浦半島・神奈川

東京湾と太平洋の境界に突き出る三浦半島は、鎌倉時代から地政学上重要な位置にあった。
深海で誕生した半島は現在も隆起し続けている。歴史、ジオ、神話から、海洋と日本の関わりを知る



●横須賀と海軍オフィサー

東京に住んでいる方が海水浴に出かけるなら、湘南の中でも逗子、葉山あたりのこじんまりとした海岸は、比較的混雑も少なく、悪くないチョイスだ。夏は行楽客で賑わう三浦半島だが、冬の風景を知る者は案外少ない。八百屋で見かける「三浦大根」のおかげで、冬にも農業が営まれる地であることが分かる程度だ。品川から京急線で南へ向かい、冬の三浦半島に足を伸ばしてみた。
半島は、東京湾が太平洋に出る直前に、ちょうど栓を半分閉めるよう湾に突き出している。房総半島との距離は、浦賀水道などの狭い場所では10kmほどで、いわば、外海に対して、天然の堤となっている。言い換えれば、東京湾の内奥に至る船舶はみな、この狭い海峡を通過せざるを得ず、海上交通の要所だ。ペリーが黒船艦隊を率いて日本にやってきた時も、江戸城まで来るという要求を幕府は巧みに退け、この半島にある浦賀を交渉の地とした。
半島の東側の付け根に横須賀はある。自然島である猿島と岬に囲まれ、背後に山が迫るクローズドな入江だ。ここに、海上自衛隊自衛艦隊・横須賀地方隊基地、そして、アメリカ海軍第7艦隊横須賀海軍施設が置かれている。JR横須賀駅を降りてすぐの海岸沿いに伸びるヴェルニー公園を歩くと、ちょうどイージス艦「きりしま」が停泊していた。細長い矢尻のようなシャープな艦首が、ゆるやかなラインを描き、引き締まったグレーの鋼鉄のボディに納まっている。その上にイージス艦独特のずんぐりと四角い艦橋が、どんと置かれている。このデザインはステレス性を考慮した結果だという。艦橋の中には高性能のレーダーが、電子の目を光らせている。坂口安吾は『日本文化私観』の中で、駆逐艦を見て「ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上っているのである」と述べている(*1)。まさにミニマルデザインの極地だ。ちなみに、護衛艦には気象、山岳、地方の名前、輸送艦には半島名、潜水艦には潮、水中動物の名称が付けられている。そんな国土の名前を冠した護衛艦や潜水艦たちが、入江の奥にじっと身を潜めている。ミッションが下ればいつでも動けるように。

横須賀の軍港としての歴史は幕末にさかのぼる。幕臣であった小栗上野介忠順が、生糸の輸出を担保にフランスから建設資金を借り、ツーロン軍港をモデルとする艦船製造場を興したのが始まりだ。その後、大日本帝国海軍の根拠地のひとつとして横須賀鎮守府が置かれ、以降130年間、軍港として現在に至る。軍港の歴史の遺産として、南側の新港に戦艦「三笠」が保存されている。「三笠」は日露戦争でバルチック艦隊を破った日本海海戦において、フラッグシップを務めた。英国に発注され、1902年に完成し、当時としては世界で最新鋭の軍艦だった。「三笠」の艦上に上がることができる。頭蓋骨の中にいるような鋼鉄の戦闘指揮所には、細いスリッドがくり貫かれ、海上を見渡せる。司令長官であった東郷平八郎はその屋根上の吹きさらしの場所から、戦闘中一歩も動かず指揮を取った。その足跡が白くマーキングされている。突如、案内係のおじさんに声をかけられた。
「ここら辺の施設は、全部帝国海軍がつくったんですよ。米軍基地もそうです」。聞けば、彼は海上自衛隊のオフィサーだったという。
「海軍はスマートであれということを大事にしました。それは我々にも引き継がれています。最近の士官は「自分」と言うけども、「わたくし」と言いなさいと教育しています。これはもともとは旗本の言葉なのです」
うむ、実に折り目正しい。せっかくの機会なので、疑問に思っていたことを聞いてみた。これだけ、ミサイルや空軍が制空権を握っている現代に、海軍の意義というのはどこにあるのだろうか?
「それは海というのは国際法上、領海であっても、通行可能なのです。領土は上空侵犯すれば即迎撃されます。しかし、海というのは何かあったらどこでも行けるのです。だから上陸専用に海兵隊がいるのです」「もうひとつの理由はシーレーンを守るためです。日本は海上輸送によって国が成り立っています。これが止められると国が維持できません」
なるほど、海はどこまでも繋がっている。そして海洋国家である日本は、また海上交通に依存している。
「わたくしはそういう現実をみなさんにもっと考えて頂きたいです」。そう述べて一礼し、彼は去っていった。

●安房国と三浦半島

三浦半島のちょうど中央に大楠山がある。標高は241.3mながら、半島の最高峰となっている。一見、低いように感じる高さであるが、周囲に遮る山がなく眺望は素晴らしい。山頂には、どことなくイスラム教徒のモスクを想わせる国交省のレーダー雨量観測所や、NTTの電波塔といった施設が並んでいる。かつての海軍の電探(レーダー)もここにあり、コンクリート基礎が残っている。展望台を上がり切ると、海に囲まれた三浦半島の360度の眺望が目の前に広がる。相模湾を挟み、伊豆半島の山並みを額縁にして、雪化粧をまとった富士山が見える。東京から見る富士と比べると、かなり大きく存在感がある。南に目をやると、三浦半島の平べったい台地の先に、シャンパンゴールドに輝く太平洋。水平線にぽつり佇むのは伊豆大島だ。東側の房総半島はもう目と鼻の先で、はっきりと山肌が見える。浦賀水道はまことに狭い。北側には横浜、川崎の白い都市群。都庁やスカイツリーが見える日もあるという。まさに、リアルGoogle Earthを体感できるスポットだ。
三浦半島の地質は2000万年前から1500万年前に海底で堆積した葉山層群の上に、820万年前から350万年前の三浦層群、40万年前から10万年前の相模層群の地層が乗り重なるようにできている。大楠山は東西方向に三浦層群が隆起した山地上にあり、この山脈の横須賀方面のへりに衣笠山がある。ここには、かつてこの地を支配した三浦一族の本拠地だった衣笠城がある。三浦氏は源頼朝が伊豆で挙兵した際に、共に立ち上がり戦った。頼朝は石橋山で敗れ、三浦大介も衣笠城で自刃した。しかし、三浦一族は生き残った水軍をもって、房総半島の先の安房の国へ頼朝を逃した。安房には安西氏という水軍を持つ一族がおり、三浦氏とも姻戚関係にあった彼らは、頼朝を受け入れた。この時代、関東の兵の強さは天下に響きわたっており、特に武蔵と相模の兵は最強と言われた。この2つの国の兵力を動員する上で、三浦半島は重要な位置にあり、司馬遼太郎の『三浦半島記』の表現を借りると「房総半島と三浦半島は、いまも総武二カ国の梃子のような地勢的位置を占めている」。(*2)

房総と三浦。このふたつの半島の深い結びつきを示す神社が、横須賀市に残っている。名を安房口神社という。ニュータウンとして宅地造成された丘を上ると、頂だけがぽっこりと深い樹林に覆われている。石段を登り社林に足を踏み入れると、海浜植生であるマテバシイが、頭上高く樹冠を広げている。曲がりくねった幾筋の幹に木漏れ日が差し込む。それは、海藻が揺れる海底から光溢れる水面を見上げるようなイメージを想起させる。ここには建物はない。そのかわりに、そっと、大きな岩が置かれている。岩は、鰐の顔のように扁平な形をしている。岩の周りには握りこぶしぐらいの玉石がたくさんある。川の流れで磨かれた玉石は、明らかにこのあたりの地質とは異なるものだ。その理由は、この神社の神様への信仰にあった。
その昔、安房国にある須崎明神に、竜宮から献上された二つの大きな石があり、そのひとつが天太玉命(ルビ:あめのふとたまのみこと)の御霊代として、この場所に飛んできたのだという。昔から地域では、出産前にご神体まわりの小石をひとつ持ち帰り安産のお守りとし、出産すると玉石を二つにして返し、お礼参りをしてきた。北条政子も懐妊の折、参拝したという。そのようにして、岩の周りに玉石がたくさん増えることとなった。
天太玉命は、神話では天照大御神の岩戸開きに登場する神だ。勾玉や鏡などを用意し、天照大御神を呼び戻す祭祀を行なっている。後に宮廷の祭祀を分掌した忌部氏の祖神となっている。忌部氏の子孫は阿波(徳島)の国から船で出て、房総半島にやって来て、安房と名付けた。忌部氏は同じく祭祀に関わっていた中臣氏とのパワーゲームに敗れ、日本史上、マイナーな存在だが、神器を製造する技術能力、航海能力、開拓精神を備えたテクノクラート集団だったことが示唆される。安房口神社には、東方遠征の日本武尊や、源頼朝が戦勝祈願に訪れ、三浦一族の航海の神でもあった。この神社の石段からは横須賀の軍港が見下ろすことができ、その向こうに房総半島が迫っている。
海のパワーを取り入れた天太玉命が座すこの地に、海洋国家日本を守る海軍の根拠地が発展したのは、何か、深い縁があるのだろうか。木漏れ日がゆらぐ安房口神社は、子宮の中にでも漂うような、やわからな空気感に包まれており、立ち去りがたい場所であった。


続きは、ソトコト4月号にて。


写真:渋谷健太郎

0 件のコメント:

コメントを投稿