2011/03/24

「エコな人たち」が東京を脱出

  「エコな人たち」が東京から逃げ出したということを、
ある環境団体のトップの人から聞いた。
特に今回の水道水放射能検知の状況では、まあそういう動きが早まるだろう。
「エコな人たち」とひとくくりにすることはできないが、そう括られてしまうことの特性として
自分だけは安全な食料、水、環境が確保できる場所にいたいというようなニュアンスを感じる。

  もともとエコロジーとは生物群集と生息環境の関係、個と全体の関係を問う学問であったはずだ。
自分たちだけが生き残れる環境を志向するとそれはコミューン志向になる。
その閉じた系自体も全体の中で生かされている一つの系にしか過ぎない。
いま起こっている事態は、これまで何の疑いもなく信じていた全体を担うシステムが機能不全を起こしており、全体をサポートするようなシステムではなかったということだ。
首都圏の人たちのエネルギーを確保するために地方が犠牲にならざる得なかったこと、
分散型エネルギーを導入することを否定してきた電力会社の論理が「安定供給に破たんを起こす」ということだったが、その大型一極集中のシステムがもろく崩れ去ったということだ。
それが日々のドラマティックな展開の中で誰の目にも明らかになっている。

  今回の事態で、いろいろな物事のありのままの姿が分りやすく明らかになったが、
「エコな人たち」も今までのスタイルでは多分、限界が見えている。
首都圏の人口が地方に分散していくということ自体は必要なことでもあるのだが、避難した地方の中で自分の存在をどう組み込んでいくか、その地方自体も日本全体の中で、世界全体の中で、どう機能させていくかということの着地点を見出していかないと結局は立ち往生することになる。

  そう、この世界はもう多分どこにいっても避難先はない。ただ、一時的に問題が先送りされるが、それは一時で終わり、すぐに解決しなくてはいけない問題が山積みになっていることに気づかされるだろう。
個の問題解決がどう全体の問題解決に繋がっていくかということを常に考えていかないとならない。
遠回りのように見えるが、それが最も早道でもあるのだと思う。
きれいごとではなく、ぎりぎりのところでそう選択せざる得ないような時代に、311以降唐突にシフトしてしまった。
それは大変な混乱を伴うだろうが、本来の道に進まざる得ないようなお題を然るべきタイミングで与えられたのだと、何かすがすがしさも感じる。

  とはいえ、自分も歯が抜けてしまう夢を昨日見て、相当不安というか動揺を感じているのも確か。
みんなの集合無意識も急激に変化しているだろうから、みんなが今どんな夢を見ているのか、それも知りたいところである。




 
 

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