2011/03/22

SNSアカウントと柳田國男

 先週は長い一週間だった。

 震災初期にはツイッターが情報共有ツールとして有効的に機能しているように見えた。
震災地や原発の情報などが堰を切るように流れてきて、確認し、有益な情報と思ったものはリツイートした。
しかし、編集リツイートでは情報源が分らないので公式リツイートを使用しようという動きになった。
デマ情報も流れ、自分も安易にリツイートしてしまったものもある。
次に起こったのは自粛モード。震災の気分を害するものは排除され攻撃された。
関西のフォローで彼らの日常を流してるアカウントは正直異物感があって、フォローを外すということを自分もやった。
そしてその反動でエッチネタやちょっとしたジョークが流れ始めみんなの心を和ませた。
その中で最大のヒットはやはり#edano_neroだろう。
これは海外のマスメディアにも取り上げられる結果となった。
3日ほど経つと、非被災地の僕らでもできることをやろうという動きが始まった。
様々な震災情報サービスが立ち上がり、募金活動も活発化していった。
facebookページでの情報集約サイトを立ち上げる方もおられ、それぞれのメディアリテラシとメディア環境でいろいろな試みが同時進行的になされていった。

 有名、無名問わずいろいろなアカウントがその時の空気に流された意見を流布したり、
間違った情報を流したり、喧嘩が起ったり、新しいサービスを立ち上げたり、
twitterも喧騒の日々だった。しかしみんな急速にtwitterをはじめとしたメディアリテラシーを学習した時間だったように思う。

 そんな中で大塚英志さんとたまたま井の頭公園のスタバで再会した。
彼は作家、マンガ原作者、編集者、批評家、大学教授といろいろな顔を持つ。
編集者時代に僕は担当で、様々な仕事をさせてもらった方だ。
SNSと連動した電子出版サービスをやりたいとおっしゃった。
僕の知る限り大塚さんはSNSはおろか、キーボードすら自分で打たずに手書きの原稿を書いて、弟子にテキストを打たせている御方である。
そんな大塚さんがこのタイミングでなぜそのようなことを言い始めたのか関心があった。
映画「ソーシャルネットワーク」を見て気がついたのだという。ソーシャルユーザーのアカウントは作家の「主体」に近い存在なんだと。
だがそれは、アカウントがイコールそのまま作家性を持つことではない。
「繋がる」という環境を提示していれば良かった時代はもう終わったと、これからはどう表現と主体性を高めていくかというタイミングなんだと。

 電子書籍というフォーマットであっても書籍という形式を持つ限りにおいて、ある作家性を書き手に求める。
それは、SNSユーザーを次の段階に進めるきっかけになるのでないかと。
そんな中で柳田國男の話が出てきた。柳田は「よき選挙民を育てるためには国語の教育が最も重要だ」と言い、言語的な主体を確立させることに力を注いだ官僚でもあった。それが彼の言う「常民」の概念だ。
なるほど、と思うところがあった。

 SNSアカウントユーザーの作家性の洗練を通した主体性の確立へ。
なかなかプログレマテッィクなテーマだと思ったので、その企画を共に手伝うことに決めた。
大塚さんは日本のCGMの源流と言えるコミケ、二次創作に深くか関わってきた編集者なので、彼がこのタイミングにそういうことを言い始めたのもやはり、何かの潮時なのかもしれない。

 そして、自分を振り返ってみると情報をキュレーションしているように見えて、
結局他人のツイートに反射的に反応している単なるいちSNSアカウントユーザーに過ぎないことも分った。
そういえばブログなんかもちゃんと続けたことがない。
とりあえず、自分のスタートできる中で、書くということをやってみようと思ったので、ブログを始めることにした。
まあ、あんまり更新はしないかもしれないけど、定期的に日常の情報フローの中から浮かびあがってこのようなアブストラクション行為を行う予定。

 今日は春分の日。一年のサイクルのスタートで、何かを始めるには最適な日だ。

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