2013/12/31

ハビタ・ランドスケープ#017 多摩川・東京/神奈川 

「ソトコト」連載ハビタランドスケープ#017
左岸と右岸の流域史
多摩川・東京/神奈川

多摩川を挟む東京側の左岸と神奈川側の右岸は、近いようで全く異なる
歴史と文化を持つ。その意外な共通点を二子玉川を起点に探る。




王たちの丘
 二子玉川の駅はふわっと川の上に浮いている。東京都でもないし、神奈川県でもない、中間地帯のホームから、広い多摩川の河原を見下ろすのは、都市の中にあってとてもファンタスティックな時間だ。田園都市線の地下路線から、一転、光と風の世界に送り込まれることで、より劇的にその効果が高まっている。ここに橋が掛かったのは、そう遠い昔のことではない、昭和2年(1927)のことだ。それまでは「二子の渡し」と呼ばれる渡し船が両岸をつないでいた。遡って江戸時代、幕府は多摩川を江戸防衛のフロント・ラインと位置づけていた。そのため、架橋に制限があった。また、六郷付近に慶長5年(1600)に橋を架けたことがあったが、たびたびの氾濫で橋は流され、普請コストに見合わず橋を諦めた。以来、数百年のあいだ、多摩川に橋は架けられることはなく、渡しで行き来することとなった。ここに橋が架けられたのは、1923年の関東大震災後の復興支援と、在京陸軍の相模原への演習時の移動が理由となった。東京側は橋を多摩橋、神奈川側は二子橋と、それぞれのサイドの地名を主張しあい、結局二子橋という名称に落ち着いたが、二子玉川という地名も、このボーダーライン上の性格に由来する。二子玉川という名前にも込められている、多摩川を挟む右岸と左岸。川を挟んだ空間に、どのような歴史と世界が広がっているのか、探索に出かけることにしよう。
 二子玉川ライズのガラスのアナトリウムを通じて空が見える。二子玉川駅東口に2011年にオープンしたこの施設は11.2haの都市最大の再開発だ。隣接部分には大きな都市公園も計画され、多摩川へとゆるやかにつながるアーバンデザインが2015年に完成する。ライズを抜けて、住宅地を少し歩くと、樹林に覆われた斜面が見えてくる。松などの木立の中に、趣のある低層マンションが点在している。この崖は、国分寺崖線。本連載でもたびたび登場した、国分寺から世田谷まで続く、旧多摩川が武蔵野台地を削りとった崖線だ。崖線の下には小川の丸子川が流れており、湧水が所々染み出しているので水はかなり綺麗に見える。道路橋の他に、いくつかの小橋が架かっているのだが、それは一軒の邸宅専用の橋であったりして、穏やかでゆとりがある空間だ。フランク・ロイド・ライトの建築のようなクラシックな建物が、小川の奥に佇んでいて、表札には「整体協會」と刻まれていた。ここは明治44年生まれの整体家・野口晴哉が開いた野口整体の本部であった。樹林の丘を背負い、目前で清流を結界とする。さすがに気がいいポイントを選んでいるなと感心する。





 しばらく歩くと鬱蒼と茂る樹林があり、公園となっていて、ムクノキ、モミジなどが覆う斜面を上へ抜けることができる。台地の上は「上野毛」という地名で、東急グループの創立者、五島慶太の美術コレクションを収めた「五島美術館」がある。崖線の広大な樹林を庭園としており、眼下には東急大井町線、さらには二子玉川ライズのタワーマンション、そして多摩川を見下ろすことができる。まさに東急王国一世紀の発展を眺める玉座のような場所だ。このあたり野毛は武蔵野台地の南のエッジなのだが、鉄道の王のみならず、かつて5〜7世紀の王たちもたくさんの古墳を築いた。これらの古墳は「野毛古墳群」と呼ばれている。環八通りを自由が丘方向へ数十分歩くと、等々力渓谷の手前に「野毛大塚古墳」がある。全長86mの帆立貝の形をしたこの古墳はかなり大きい。高さ11mの円墳の前に、小さな四角い前方部がついており、きっちりと南西の方向に振られている。地図上では、この方角の延長線上に富士山がある。円墳に登ると、いまは建物があり富士山は見えないが、とてもよい眺望だ。富士山は「不死山」であったという伝承がある。巨大な古墳は、多摩川のはるか向こうにそびえる富士山への軸線を意識したランドスケープデザインであったかと思う。

photo:渋谷健一郎

続きはソトコト12月号にて
http://www.sotokoto.net/jp/latest/?ym=201312


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